真宗のお葬式
高度成長の波に乗って、日本人はより便利に、より楽な暮しを求めて突進してきましたが、みんな4、50代になると、ふと立ち止まって、私の人生は一体何だったのだろうと、このままただ生きて行くことに不安を感じるようになります。
お金や財産や地位や役職があっても、それだけでは何となく心細いものです。
心の拠り所がはっきりしていないのです。
それは言い換えれば、生活が豊かでも人生に一貫した方向性がないのです。
みんな知らず知らずのうちに迷い道に紛れ込んでしまったようです。
方向を持たない人生は、何年生きても、何をやっても無意味です。
だから死んで行くときに、お前はここへ行けと引導を渡されなければ、心配で死んでも行けないのでしょう。
浄上真宗は、現生不退(生きている今、迷いの世界に汚染されない、明るい阿弥陀如来の浄土に向かうことが決まる)が貫かれています。
南無阿弥陀仏の教えに導かれて、人生の方向が決まります。
そうなればもう二度と迷いの世界に汚染されないのだから、毎日安心して生活することができます。
だから、命終った時も、暗い迷いの世界をさまよったり、恐ろしい悪霊にとりつかれるなどという心配は少しもありません。
したがって、魔除けの刀や、三途の川を渡る旅装束もいらないし、友引の日にお葬式を営むと死人が友を引き招くなどという恐れもありません。
ましてや亡くなった方は、残った者に対して、人生とは何であるかを身をもって教えて下さる、大事な仏さま(諸仏)であり、亡くなった途端に汚れた存在にしてしまって、生きている者がそれを忌み嫌う清めの塩を用いるなどということは、絶対にあってはなりません。
枕勤めから始まる真宗のお葬式は、すべて阿弥陀如来の世界に生き、阿弥陀如来の国に帰り、阿弥陀如来の世界から私たちを導かれる故人に対し、別れる悲しみの中にも、有難うございました、とその徳を讃え、阿弥陀如来の世界に生きる喜びを噛みしめるように貫かれています。
真宗のお葬式はその人生の総決算ですから、先祖代々、親しみ、育てられてきた、なつかしい『正信偈』の教えをいただき、報恩感謝の集いを持つのです。
その儀式は、決して、世間で「ご冥福をお祈り致します」と言うような、見えない死後の世界の幸せを祈るおまじないではないのです。
世間の人々は、「真宗のお葬式は、みんなで阿弥陀さまの世界のすばらしさを讃える儀式なのだ」などと説明すると、びっくりするに違いありません。
みんな死者の追善供養のためにお葬式を営むと思っているからです。
しかし、本当に教えを聞き抜いた真宗門徒にとっては、迷っているのは死者ではなくて、問題にしなければならない駄目人間は、他ならぬ私自身だ、ということをよく知っているはずです。
生きている者が、死者を何とかしてあげよう、などというのはとんでもない思い上がりです。
私たちにはそんな超能力などはありません。
真実の世界に旅立った人に学ばなければならないのは、後に残った私自身なのです。
浄土真宗の教えをいただいてきた者にとっては、娑婆の縁尽きたとき浄土(阿弥陀如来の世界)の人になることは決まっています。
したがって、亡き人の行き先を心配する必要はありません。
仏事は決して亡くなった人の追善供養のためにおまじないをしているのではありません。
したがって、手を合せて南無阿弥陀仏と称える心は、このすばらしい教えに導いて下さった諸仏である亡き人々に対し、有難う、とお礼を申し上げるだけでしょう(仏恩報謝の念仏)。
お葬式などの仏事は、真宗門徒にとっては、南無阿弥陀仏の教えを聞く人生を目的にしているのであり、そのために亡き人たちは、大事な聞法の場を私たちに与えて下さっているのです。
だから、手を合わせる心は、有難うなのです。
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