和讃のこころ

福井市善照寺 寺報 「帰去来」より


 「和讃(ワサン)」とは、「日本で作った日本語の讃歌(サンカ)」をいいます。日本人が歌うのに、わざわざ日本で作ったとか、日本語のとか、ことわりをいうのは、仏法(ブッポウ)では、インド語や中国語で書かれた歌を、そのまま翻訳(ホンヤク)しないで歌うことが多いからです。

 「和(ワ)」とは、日本という意味です。和を「大和(ヤマト)」の和だという方もありますが、私は古代の日本人は、自分たちのことを「わ」といっていて、それを中国人が国の名だと思って、「倭(ワ)」という字を当てたのではないかと思っています。一七八四年、福岡県の志賀島(シカジマ)で、金製の印鑑が見つかりました。その印に「漢倭奴國王」という文字がはってありました。「漢(カン)の倭(ワ)の奴(ナ)の国王」と読みます。「漢」というのは、古代の中国にあった国の名です。漢字というのは、「漢という国の文字」という意味です。志賀島の金印(キンイン)の文字の意味は、「漢の皇帝の、倭という家来の国の、王」となります。

 韓国では、いまでも「倭」を、日本を表わすのに用いています。たとえば日本食のことを「倭食(ウェイシク)」といいます。韓国は、いまはハングル文字で書きますから、こんな字が当ててあることは分かりにくくなっていますが。

 「倭」という字は、「丈(タケ)が低くて背中が曲がった小人」ということをあらわします。のちにこのことを知った日本人が、「かどがたたずなごやかな」という意味の「和」に書きかえ、さらに尊敬する意味がある「大」の字を加えて、「大和」としました。「やまと」を大和と書くのは、当て字です。七〇八年から七一五年まで在位された元明(ゲンミョウ)天皇のころの年号が「和銅(ワドウ)」ですから、このころまでに「和」が国名になっていたことが分かります。元明天皇は「大和」を国の名と定めた天皇でもあります。

 和讃のことに話を戻しましよう。和讃は「日本で作った日本語の讃歌(サンカ)」ということですから、親鸞聖人以外の方が作られた讃歌も、みな和讃と 親鸞聖人が作られた和讃は「浄土(ジョウド)和讃」と「高僧(コウソウ)和讃」と「正像末(ショウゾウマツ)和讃」とに別れています。また「正像末和讃」の末尾には、「皇太子(コウタイシ)聖徳(ショウトク)奉讃(ホウサン)」と「愚禿(グトク)悲嘆述壊(ヒタンジュッカイ)和讃」が納めてあります。

 「浄土和讃」「高僧和讃」は、一二四八年、、聖人七六歳のときに作られ、「正像末和讃」は、一二五八年、聖人が八六歳のときに完成されています。

 和讃は、三部に別れていますので、「三帖(サンヂョウ)和讃」といいます。三帖和讃は、蓮如(レンニョ)上人が、一四七三(文明(ブンメイ)五)年、吉崎(ヨシザキ)におられたときに、今日のような木版摺り(モクハンズリ)にされています。

 この和讃を、「浄土和讃」のはじめから、拝読(ハイドク)してまいります。

 浄土和讃は、はじめに和讃が二首あって、つぎに「讃阿弥陀仏偈(サンアミダブツゲ)」のことばがあり、「讃阿弥陀仏偈」と「十住毘婆娑論(ジュウジュウビバシャロン)」のなかの阿弥陀仏の別名が書いてあります。

 「讃阿弥陀仏偈」は、真宗(シンシュウ)七祖(シチソ)のおひとり、曇鸞(ドンラン)大師(ダイシ)が作られた歌です。親鸞聖人は曇鸞大師をひじょうに尊敬されて、聖人が書かれたもののなかには、曇鸞大師のことばが、たくさん引用(インヨウ)してあります。「十住毘婆娑論」は、龍樹(リュウジュ)菩薩(ボサツ)が書かれた本の名です。龍樹菩薩は、この本のなかでインドで初めて、阿弥陀仏とその浄土について、くわしく説明して下さいました。聖人は、正信偈のなかでも、このお二人のことを讃え(タタエ)ておられます。

 はじめの二首の和讃は、ふだんのお勤め(ツトメ)のときには、称え(トナエ)ないことになっています。ただし、一首目の和讃は「阿弥陀経(アミダキョウ)和讃」を六首引(ロクシュビキ)で称えるときにかぎり、六首目に称えることになっています。

@弥陀(ミダ)ノ名号(ミョウゴウ)トナエツツ
 信心(シンジン)マコトニウルヒトハ
 憶念(オクネン)ノ心(シン)ツネニシテ
 仏恩(ブットン)(ホウ)ズルオモイアリ
A誓願(セイガン)不思議(フシギ)ヲウタガイテ
 御名(ミナ)ヲ称(ショウ)スル往生(オウジョウ)
 宮殿(クデン)ノウチニ五百歳(ゴヒャクサイ)
 ムナシクスグトゾトキタマウ

 この和讃のなかで、「憶念ノ心」とありますのは、阿弥陀仏の本願(ホンガン)を、常に思って忘れないということです。仏説(ブッセツ)観無量寿経(カンムリョウジュキョウ)には、「もし善男子善女人(ゼンナンシゼンニョニン)、ただ仏名(ブツミョウ)・二菩薩(ニボサツ)名(ミョウ)を聞くに、無量効(ムリョウコウ)の生死(ショウジ)の罪を除く。いかにいわんや憶念せんをや」と説かれています。仏(ブツ)菩薩(ボサツ)のみ名(ナ)を聞くだけでも、宇宙が始まって以来の命あるものが犯した罪を、取り除くことができる。ましてや憶念するものは、必ず悟り(サトリ)の境地に入ることができる、という意味です。このことを正信偈(ショウシンゲ)には、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然(ジネン)に即(ソク)の時(トキ)必定(ヒツジョウ)に入る」と説いておられます。即の時とは、間(マ)をおかずにということです。必定とは、必ず仏になる身に定まるということです。

 ここには真宗の根本が説かれているのです。