宗門各位に告ぐ(宗門白書)
 宗務総長 宮 谷 法 含

ー、宗門の実情
 いまの宗門は、五年後に宗祖聖人の七百回御遠忌を迎えようとしている。しかも、御遠忌を迎えて、われらは一体何を為すべきかの一途が明らかでない。宗門全体が足なみをそろえて進むべき態勢が整うているとはおもわれない。このままでは御遠忌が却って聖人の御恩徳を汚しはせぬかとの声をも聞き胸をも打たれる次第である。この憂うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからではないか。今日宗門はながい間の仏教的因習によつて、その形態を保つているにすぎない現状である。寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝は日に日に深められてきているではないか。厳しくしそうが対立し、政治的経済的な不安のうずまく実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を伝道する仏法者としての自信を喪失しているではないか。寺院経済は逼迫し、あやしげな新興宗教は、門信徒の中に容赦なくその手をのばしてきている。教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省しているであろうか。まだ何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰かけているのではないか。
 大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門になつてきているのである。極言するならば、われわれ、宗門人は七百年間、宗祖上人の遺徳の上に安逸をむさぼつて来たのである。いまや御遠忌を迎えんとしてわれら宗門人は、全身を挙げて深い懺悔をもたねばならない。単に御遠忌のにぎにぎしさを夢みることによつて、この現状を糊塗するようなことがあるならば、宗門は疑いもなく、歴史から冷やかに嘲笑を浴びるであろう。
 宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発すべき関頭にきている。懺悔の基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心である。混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂たる真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道の実践よりほかにない。

  二、教学について
 明治のわが宗門に、清沢満之先生がおられたことは、何ものにもかえがたい幸せであつた。先生の日本思想史上における偉大な業蹟もさることながら、大谷派が徳川封建教学の桎梏から脱皮し、真宗の教学を、世界的視野に於て展開し得たことは、ひとえに、先生捨身の熱意によるものであつた。先生の薫陶を受けて幾多の人材が輩出し、大谷派の教学は、今日に至るまで、ゆるぎなき伝統の光を放つている。これは正しく宗門が誇るに足る日本仏教界の偉観である。
 真宗の教学を、世界人類の教法として宣布することは刻下の急務である。その為には煩瑣な観念的学問となつて閉息している真宗教学を、純粋に宗祖の御心に還し、簡明にして生命に満ちた、本願念仏の教法を再現しなければならない。このとき如来と人間の分限を明らかにすることによつて、絶対他力の大道が衆生畢竟の道であることを、現代に明白にされた清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものであることを知るのである。
 「我々が信奉する本願他力の宗義に基き我々に於いて最大事件なる自已の信念の確立の上に、其の信仰を他に伝える、即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成する」とは先生の有名な、真宗大学開校の辞であるが、これはそのまま、宗門教学の根幹を示すことばである。教学振興は宗門行改の看板に掲げる空辞であつてはならない。具体的事実に基づいて、信の人の養成に一派の教学活動は集注さるべきものである。
 静かに宗門頽廃の主因をも尋ねあらゆる困難を克服して、教学施設の充実と、自信教人信の人材を養成することに渾身の努力を払わなければ、宗門は内部から枯渇し、崩壊して、時代の前に無力無能の形骸を曝すことになるであろう。

  三、財務について
 宗門の財政が、宗門人の懇志によって運営される.ことは、教団として当然の姿である。われらの宗門を、われらの手によつて護持発展させることは、宗門人の責任であり、誇りでもあるからである。しかるに、宗門財政が年々歳々異常な困難に逢着することは、まことに遺憾なことである。宗務とは募財に苦慮することを指すかの観すら呈している。
 年間数億円の予算は、現下の経済事情からして、決して多額に過ぎるものではないであろう。問題は法義と相応しない募財の矛盾を解決してゆくところにある。同時に、宗務当局は宗門全体に諮つて納得のゆく予算を編成し、その使途に不信を招くようなことがあつてはならない。経理運用の上に正しい企画性をもち、冗費は極力はぶかれねばならない。それらの点に関し改善反省を要するもののあることが痛感される。わが宗門には明治以来、相続講というすぐれた機構が設けられて、宗門財政の大部分がまかなわれてきている。相読講の精神が、法義相続を本旨とするものであることはいうまでもないが、今日、その本末顛倒の観を呈していることに省みて、財務の上からも吾等は深くその非を思い、同朋教団の本意を体し共に共に自信教人信の一道に大勇猛心をもつて立直らなければならないであろう。

  四、御遠忌について
 宗祖に還れ。弘願真宗こそ如来出世の本懐である。親鸞教こそ四生の終帰であり、万国の極宗であり、人心の畢竟依である。信に迷い行に惑い、悪重く障り多き凡夫人が即時即刻、開明正定人となる大道こそ、聖人の浄土真宗である。
 七百回忌大遠忌を五年後に迎える今日、全宗門が斉しくこの大道に帰してこそ、御遠忌厳修の所詮である。
 宗門は挙げて、親鸞聖人の精神を現在に再現するために、全力をそそがねばならない。換言すれば、荒廃しつつある真宗教団を、速かに快復するために、御遠忌お待受の仕事の全部が傾注されなければならないのである。内に荒廃してゆく教団を見送りながらでは御遠忌の所詮は無い。僧俗力を協せ、一万の寺院百万の門徒が一つになつて、本願念仏の躍動する清新な教団を復興するよう、不惜身命の努力を捧げるべきときである。自明当然のことながら、真宗第二の再興を志願することを以て、御遠忌お待受の唯一絶対の指標としなければならない。この志願に一路邁進することなくしては、宗門は御遠忌に際し、宗祖聖人の御影向を仰ぐことはできないであろう。願わくば、真宗をして真宗たらしめねばならぬという一点に宗門全体の意識を統一し、この指標の下に全身全霊を打ちこんで教団真個の力を培養して行きたいものである。

  五、内局の決意
 御遠忌準備という重大な責務を荷いての内局の所信はほぼ以上につきている。
 ただ最後に一言を添えたいとおもう事は、草庵に隠れていたこの老骨を、この非常なときに、宗議会が一致して、はからずも宗務総長の職責に就かしめられた経緯についてである。その主要な原因は老骨の信や力を過信してのことではない。宗門最高の議決機関たる宗議会が、世俗的な政争を避ける為に議会外から、しかもこの老廃を迎えられたのであろうが、出た以上は責務を果たさねばならぬ。願わくば宗議会が宗門にふさわしい明朗な運営に終始せられんことを希んでやまぬ次第である。
 宗務は今後五年、御遠忌事務と一体となるべきである。従って宗務機構と人事の刷新強化を早急にはからねばならぬ。御遠忌予算は、宗議会の要望もある如く、その次第軽重を定めて万全の遂行を企画する必要がある。
 思えば、菲才不徳の身に余る大役である。為すところ、云うところ、不満も不足も多々あろうが、老骨の心情を諒とせられて、しばらくその責任を果させて頂きたい。宗議会をはじめ宗門各位が、善意の批判と全幅の協力を加えられんことを懇望するばかりである。
 就任日ならずして、全国津々浦々から数多くの鄭重な激励の書面と言葉に接し、本内局に寄せられる懇念の厚さに、改めて宗門の現状と将来について決意を新たにさせられるものがある。ここに上局各位と相諮り、率直に所信を披瀝して宗門各位の賛同を乞い、仏法興隆の真義に生きる、真宗教団形成の一途に就きたいと念ずる次第である。

  昭和三十一年四月三日

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