永六輔『南無阿弥陀仏』 より抜粋A
〜 角川春樹事務所 ハルキ文庫 〜

Y 陀章

・・・ 〔略〕 ・・・

東本願寺の回廊の途中に
      ガラスケースに納まった髪綱が展示してある。

本堂建立の際、
   巨大な材木を運ぶのに
      北陸の婦人信徒はその髪をおろして綱になったものである。

どんな綱でも切れてしまった巨材が、
     この髪の毛の綱でひきあげられたという。

髪綱の箱には、
      その信仰心の厚さをたたえた文章がそえてある。

本願寺王国「北陸」の婦人たちが髪を切り、
     さらに綱になっているおどろおどろしい光景を思うと
                        背筋が寒くなってゾッとするが、
この髪綱に手をあわせ、
     念仏をとなえている信者の姿も多い。

現実に綱髪はそこにあるが、
   女の生命といわれる髪を切るような信仰心はもはや伝説だろう。

本願寺はこの伝説に甘えている。

現代の信仰に対する洞察に欠けている。

南無阿弥陀仏をとなえなさい!

信仰が足りません!

そんな法話というなの説教で人々がついてくるわけがないのだが、
                                  それを繰り返す。

信仰を「流行商品化」している若い宗教団体に対抗できるわけがない。

かつて信仰の中心だった本願寺、そこに残る伝説。

そうした重みはたしかに感じる。

理屈でなく、
   本願寺の本堂の広間に座ると歴史の重みはたしかにある。

しかし、そうした重みが、今日の苦悩を救うことにはならない。

伝説や、伝統は決して手をさしのべては来ないし
              それは権力ないし権威に化けるだけである。

本願寺を大企業とすれば、最尊寺は中小企業だ。

別の言い方をすると、本山と末寺。

つまり本社と支社、又は支店、
       あるいは出張所という形で、
             国家と組織づくりがしてあった。

これは舞踊、茶道、生花の流儀と同じで家元が天皇にあたり、
                          主に経済的に利用される。

芸の世界では特にハッキリするが、
          名人が家元になっているわけではない。

一門の中にはその芸の上で家元よりも上手な人がたくさんいるのである。

そんな家元は権威の象徴ではあっても尊敬される対象にはならない。

笑いものになりながら
    伝説の中で生きようとする家元や教祖や法主は多い。

しかし「尊敬したがり屋」が沢山いて闇雲に、前後の見境もなく、
                 取り敢えず尊敬することで自分を守ろうとする。

そこには理解というものがない。

テレビに出ていれば偉い人と思って投票する心情にも通じるが、
                    その偶像崇拝があるからお家安泰なのだ。

なにごとかのおわしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる

なんだかわからないがなんとなく有難い  ・・・ 〔略〕 ・・・