永六輔『南無阿弥陀仏』 より抜粋B
〜 角川春樹事務所 ハルキ文庫 〜

Z 仏章

・・・ 〔略〕 ・・・

どこの寺に行っても、
   その本堂だの廊下に「寄進」「寄附」をした人たちの名前と品、
                       あるいは金額を並べて書いてある。

寺の法事そのものが何も生産しないとあれば、
     こうした「貰いもの」で暮らすのは当然だが、
            最近はそれを還元していないことが多いようだ。

「サラリーマン化」という言葉が、
    放送局の現場などで嘆かれる形でつかわれているが、
                仏教界の場合もこれと同じことがいえる。

本願寺の裁判沙汰など同族会社のトラブルと変らないし、
     その対決も資本家と組合といった様相を呈している。

最尊寺のように小さいつつましい寺の場合は
     檀家との関係が戦前からのままで済んでいる。

檀家は檀家総代によってその意思がまとめられる。

建物を修理するとか、墓地に必要なものを購入するとか、
     それは檀家一同がいろいろな形で負担することになるのだが、
  その場合でも
     出来る限り檀家に負担をかけないように努力するのが
                                    寺の礼儀である。

僕は戦後の焼跡で、
     よその寺が檀家の寄附で立派に再建しているのに、
  親父が手作りのバラックから始めた精神を今にして立派だと思う。

そして、その親父の意思を尊重してくれた上で助けてくれた
                    檀家の皆さんもいい人たちが揃っていた。

最尊寺が組織というには小さすぎる寺だから信頼しあえているのだろう。

寺によっては、やや強制的に寄附を集め、
    その為に檀家が離れていくというケースもあるし、
         逆に寺から住職が離れてしまうということもある。

落語の「コンニャク問答」に出てくる寺も住職に逃げられた寺である。

要するに寺という「いれもの」にどう納まるかが、
     それぞれの寺の暮らしであり、
   これに檀家の景気、社会の景気が微妙に影響してくるわけだ。

商売あるいは仕事ではない。

朝暗い内から働けばいいというものなら別である。

もっとも、教祖になって新興宗教といわれるものを起し
   一代で大企業のような組織化に成功するという場合もある。

信仰の企業化といわれたりするが、
     これはいってみれば日本に伝統のある
         「家元制度」を見習っただけのことである。

 ・・・ 〔略〕 ・・・