真の幸福を求めて

山越大樹氏講話より 
宗教とは何か…
●神・仏とは… 信仰とは…
●人間がひとしく求めてやまない幸福の正体は…
●仏道の実践を志すものの心構えはどうあるべきか。
  

 一期一会ということばがございます。
本日こうして皆さんとお会いしましたが、これがまた、この世における最後のお出会いであるという、きわめて厳しいお言葉であります。
従いまして私も真剣にお取次ぎをさせて頂きますし、皆さんもどうぞ一期一会のつもりでお聞きとり願いたいと存じます。

 私はむかし陸軍士官学校を卒業し、一将校として日本の神道を皮切りに中国の儒教、大東亜戦争が近づいてからはキリスト教を、さらに昭和十八年の暮ごろから仏教の研究を命ぜられました。
このように陸軍時代の大部分を世界の四大宗教の研究に捧げましたが、それがいつの間にか自分の血となり肉となり、戦後、私の進む道は宗教以外にないと感じ、明けても暮れても宗教の研究のほかに何の道楽も持たない者でございます。

 そこで今日は、特定の宗教宗派に片寄らないでお話しようと思います。

宗教とは自分自身が救われるための考え

 元来、仏教に限らず宗教というものは、起こった動機、その時の実情、また世に伝わった姿をずっと見ますと、他人に説くものではなく、自分自身が救われるための教えであります。
従って本来は、お互いが理屈を論議したり研究したりするものではなく、自分の心に、生活に、どう受け止めていくかという一事に尽きるのであります。

 私は今日、自分で車を運転してここへ参りましたが、例えば、赤信号は危ない、青信号は大丈夫ということを知っておっても、この信号ははたして私を護ってくれるっでしょうか。
赤信号の出ているとき不用意に私が出ると、赤信号が「危ないぞ」と言って私を抱き止めてくれるなら護ると言えましょう。
しかし、私が信号を無視して出ても、ケガをしても信号は知らぬ顔で点いています。
信号は決して私を護るものではなく、信号が赤の時には止まらねばならぬという赤信号の示す意味を私の心に領解して、その心に従う時に初めて私は護られるのです。
 なにが幸福であるか――その六つの条件

 さて、今日与えられた問題は「真の幸せを求めて」というのであります。
幸せの上に、「真の」とついているところに宗教があるのです。

 あるお経に、幸福の条件は六つあると説かれています。

 第一は、いつ、どこで、どんな事があっても、不安動揺しないで安心して生活ができることです。
安心は一般に“あんしん”と読みますが、仏教では“あんじん”と申します。
読み方が違うだけでなく、内容も違います。

 例えば、貯金通帳を見てニターッと笑って、「これで利息だけで食える」とう安心は“あんしん”(笑声)……知らぬ間に息子が道楽して貯金をおろしていたら、この安心はこわれてしまう。

 病院で診察してもらって「あんたはどこにも悪いところはない」と言われてホッとする。
これも“あんしん”ですが、次の診断で、 「ガンですな」と言われたらこわれます。
 “あんじん”というのは、いつ、どこで、どんな事に遭うても、デンとおちつきはらって生きぬくことができる、これが宗教の求めている眼目であります。

 第二は、身のまわり、小は家庭から大は世界にいたるまで、平和と円満に充たされた境遇に生きること。
仏教でいう浄土、こんにちの言葉でいえば「絶対平和な環境」です。
浄土はなにも死んだ者が行く所じゃありません。

 第三は、有りふれた事ですが大変だいじなこと。
それは健康です。
身も心も健康であること。
私共は親しい人と別れるときには「大事にしてなぁ」という。
それほど健康は人間の幸福に大きな影響をもっているのです。

 第四は長寿。
ただ健康というだけでなく、長寿を保つこと。
人間の寿命は本来百二十五歳だそうですが、なかなかそうは生きられません。
親鸞聖人は九十歳、蓮如上人は八十五歳――その時代の平均寿命は今と比べてもずっと短命でしたから、長寿を保たれたと申せましょう。

 第五は、経済が安定するということ。
これは実際問題として大事なことで、これを軽く見るのは間違いです。
宗教は精神的なことばかり説いて、物の面は言わぬといかれますが、物にも心にも片寄らぬのが宗教であって、ただ、物のことは放っておいてもやるから心の面をやかましく言うのです。
「物心一如」といって、物にも心にも片寄らないところに人間の本当の道があるのです。
 お釈迦さまが尼蓮禅河のほとりで身を浄めて、山羊の乳を呑んでスタートされた、というところにそのお示しがあると思います。

 第六は、子孫がりっぱに栄えていくということ。
人間の老後の生活を考えると、老人の以上六つの幸福の条件、これを一ロにいうとわれわれは「大満足を得ようとして生活している」ということ。
これがオギャアと生まれたときの願いであり、一生をかけて追い求めている目標であります。

 しかし現実はどうであるか。
残念ながら皆さんのご体験のとおり、心配ごとは次々におこるし、争いが絶えないし、病気や事故がふえるばかりで、百歳以下で殆ど死んでしまう。

 一方、物や金は少々豊かになったが、豊かになればなるだけ人間の心が貧しくなって、人間としての重大なものが失われてきているのが現状です。

 私は金沢市の青少年保護センターにも毎月一回出て、運営にかかわっていますが、一日平均五十四名が保護を受けている。
しかも、年齢はだんだん低くなってきているし、その悪くなりかたも悪質で醜悪で、大変な傾向にあります。

 そこで一ロに申しますと、われわれは幸福を求めて骨折りながら、求めもしない不幸が重なってきている。
願っているとおりにならないばかりか、願いもしない不幸がふえるばかり――これが率直な現実であります。

 いったい、それはなぜだろうか、と考えてみますと、われわれ人間の“幸福の求め方”が間違っているからである――神・仏の教えに照らしてみると、そういう答えが出てまいります。

 われわれは、どう間違っているのか?。
 大法――寸分の狂いもない大自然の法則

 この大自然の現象は、雑然と行われているようだが、見ればみるほど、厳密な秩序と統制と調和の中にあるということに気付きます。

 私たちの往む地球が二十四時間で一回転し、三百六十五日四時間五十八分で大陽のまわりを公転している。
地球のまわりを月が回っている。
太陽と月と地球の三つの関係で日触や月触という現象があるが、これが何年何月何日の何時何分何秒に始まると言えば、一秒の何万分の一の狂いもない。

 このような大自然なかには、人間がそれを認めるとか認めないとか、わかるとかわからぬとか、信じるとか信じないとか、ということに関係なく、厳密な法則が働いているのであって、これを大法といい、また神仏の世界であると考えて、神道とか仏道とか申すのであります。
儒教では天道と申します。
また、これ以上の道はないので無上道、あるいは自然――仏教では“じねん”と読みますが、おのずから然らしめる、または法によって爾らしめる――自然法爾ともいわれます。
そういう宇宙の法が働いている。
これを「大法」とも申します。

 石川県では「そうなっとる」という言葉がよく使われます。
例えば夫婦が子を授かるときには奥さんが産む……そうなっとる。
水は高い所から低い所へ流れる……そうなっとる。
人間がきめたものなら人間が改めるかも知れんが、天地開闢以来そうなっとることで、人間の力ではどうにもならん。
これが大法ですが、この大法がわからぬと仏道修行が始まらぬので、大法の内容について少し説明します。
 大法の内容

 その第一は、相依相関ということ。

 皆さんがどんなに汗を流して作物をつくっても、それを買い求める方がなければ経済的に成り立ちません。
また作物を収穫したら、不用になったワラや有機物を田畑に還元せねば、土はいきいきと働くことができません。
動物はみな酸素を吸い炭酸ガスを吐き出して生きている。
植物はその炭酸ガスを吸い、酸素を吐き出して成長する。
お互いに持ちつ持たれつ――これが相依相関の法であり、これによって利他利自円満であります。
すべてのものがお互いに助け合わされているということですね。

 私という一個の人間も、親からみれば子、子から言えばお父さん、兄は私を弟といい、弟は兄さんと呼ぶ。
男であり、夫であり、国籍上は日本人、仏さまから見れば凡夫――というように幾つもの呼び名がある。
これはどういうことか。

 私が夫といわれるのは妻があるからであり、お父さんと呼ばれるのは子があるからであり、凡夫というのは仏さまがいらっしゃるからであります。
このように、たくさんの名前を持っているということは、縦にも横にも斜めにも、つなぎ合わさったアミの目の一コマが私という存在であって、互いに助け合うことによって生かされているという証拠であります。

 経文の中にも「衆生と倶に」という言葉が出てきますが、衆生がみんな救われなければ我が身にも救われる道がない、という釈尊のお悟りです。
そして、この相依相関の法に反くものは知らず知らずの間に、毒蛇や猛獣ライオンのように、強くても滅亡の道を歩むことになるのです。

 次は大調和――簡単に説明します。

 例えば、男と女の数がピシャンと調和しています。
支那事変から大東亜戦争にかけて日本の戦死者は三百十万人。
そのうち二百十八万人は男子です。
ところが終戦後は男子が多く生まれて、今では男女の数が調和しています。
これも「そうなっとる」んですね。
ある家では、一ヒメ、ニヒメ、三ヒメ……一人ぐらい男があってもよいと思ってもどうにもならぬ。
かと思えば別の家では一太郎、二太郎、……五太郎、と男ばかりがつづく。
それでも石川県で本年成人式を迎えたのは一万六千数百人、男女のちがいは僅か七十人です。
思うように産むことはできぬが、産んでみれば全体としてちゃんと調和をたもっている。
これが自然の法則であります。
人間の力ではありません。
 何をするのも自由であるが 因果の法則はまぬがれない

 三番目は因(縁)果の法則

 どんなことも不意、偶然、突発、不思議にものごとがあるのでなく、必ず原因があって結果が出るということ。

 作物をつくっていられる皆さんにはよくわかりますね。
良い種を播くという原因に、空気・土・水・肥料・防除などの良い(縁)が加わって、はじめて良い結果が得られる。
図式で示すと次のとおりです。
 ○(良因)+〇(良縁)=○(良果)
 △+△=×  ○+△=□  △+〇=◇
 この方式に間違いありません。
 私どもの生活を考えてみますと、
 *身をもっていろんな事を行う生活(身)
 *口でいろんなことを言う生活  (口)
 *心にいろんなことを思う生活  (意)
 この三つが全部であります。
仏教ではこれを身口意と申します。

 そこで、行う(身)という生活や、言葉(口)の生活に因(縁)果の法則が働くということは、見ても聞いてもわかります。
しかし見ても聞いてもわからぬ心のうちで思う(意)という生活にも、因(縁)果の法則が厳密に、しかも自分自身に働くということを明らかにしたのが仏教であります。

 私が富山の別院へ行くと必ず話を聞きに来て下さる社長さんがいます。
あるとき、話の後で「今日の先生のお話で、親と子はよく似たものだと言われたが、私の知っている親子はまるでちがう」という。
よくわけを聞いてみると、その人のお父さんは三十二年間、飲まず食わずというほどに働いて金を貯めた。
その苦労話には私も驚いた。
とにかく天気さえよければ朝早く家を出て、親類へ寄って、「下駄貸してくれ」という。
自分の下駄をはくと減るからね(笑声)。
皆さん笑われるけど、金を貯めるということは大変なことですよ。
それからあちこち回ってゴミ箱をあさり、使えるものを集めて持ち帰る。
よそで食べるときは自分の持参したハシを使って、新しい割バシは持って帰る。
電車の割引時間があれば、どんなに朝早くてもそれを利用する……。
こうして三十二年間に親が貯めた貯金を、息子は三年半でステーンと使うてしもたという(笑声)――。
これでは私の話に納得せんのも当り前でしょう。

 しかし宇宙の法、仏さまの教えに誤りはない。
そのお父さんは国家社会のことも思わず、妻子のことも眼中になく、ただ我さえよければよいという、利己心だけで金を貯めた。
息子も親のとおりで、他人のことを一切考えずに、我の満足だけで金を使うた。
もうけた、使うたという形は反対だが、どちらも自分の欲の満足だけしか考えないという点では全く同じことです。

 息子という字は、自分の心の姿そのままがわが子ということだよ、というと、社長さんはヘェーと感心していました。

 人間は何をしようと自由です。
しかし因(縁)果の法則に目覚めると、そうは出来ない。
歴史の事実もみな善因善果、悪因悪果、その法則に間違いないことを証明している。
今までもそうであり、これからもそうである。
こういう厳密な宇宙の教えがあるから、われわれは幸福を求めるとき、誰が、いつ、どこで求めてもそうなるという良い結果を招くような、善い原因をつくることに努めなければならぬのであります。

 駅で汽車に乗るにも、急行は汽車賃が高いからといって鈍行に乗って、急行よりも早く向こうへ着きたいと言っても無理。
また、京都へ行くのに友達があるからといって、富山行の切符を買ってもダメ。
急行だろうが、上りだろうが下りだろうが、どの切符を買うのも自由です。
しかし京都へ早く行こうと思ったなら、京都行きの急行切符を買わねばならぬ。
ところが私たちの中には、京都へ行きたいのに富山行きの列車に乗っている人も相当います。
そういう人は車掌さんに切符を見せて、自分の乗っている列車は京都へ行くか検べてもらわねばならぬ。
今日のこの集りにも、皆さんの切符で目的地へ行けるかどうか検べ役がここに乗っております。
この講師が車掌の役目をして、皆さんの切符を拝見しているということです。
 大法に従うものは栄え 反くものは必ず滅びる

 さて今までの話は全部忘れて下さってもよいから、これから申し上げることを真剣に聞いて下さい。

 この大自然には人間をはじめ、あらゆる動物、いわゆる生物が興亡盛衰をくり返して現代の世界になっております。
この興亡盛衰の姿には三通りあります。

 一つは個人を見ても数代を通して見ても、安心と満足と喜びが上向きになっているもの。
その反対に、一時は繁栄しても次第に苦しみや失敗をくり返して、ついに滅亡するもの。

 もう一つは、吉凶禍福が入り混って、栄えることもなければ、滅ぶ事もないという中間派。
この三つに分けられます。
そして、どういうものが一つになるか、二つになるか、三つになるか−ということを宇宙の大法に照らしてみるとき、知るか知らぬかにかかわらず、その生物の心が、行いが、或いは未来の形態が、この大法に従って分量だけ安心・喜び・満足を頂き、大法に反いた分量だけ滅の一途をたどり、従ったり反いたりしたものが中間の運命をたどる。
あらゆる学問の結論もこの事を明らかにしています。

 私は釈尊が遠く二千数百年も前にこのことを直観して、お経として残されたことは本当に偉大なことだと思います。
学問して数千年研究してわかることを、一瞬にして観破しておられる。
悟りというものは実に恐ろしいし、しかもそれには一つの例外もないのです。

 そこで私の申し上げたいのは、大法は人によって、場所によって、時代によって変わるものではない。
永遠の真理ですから、これに従ったものは幸せに栄え、反いたものは滅んでいく。
そういう現象は過去にもそうであったし、只今もそうだし、これからも地球の続く限り永久に変わらない真理であります。
これを一大事という。
これほど大事なことはないが、人間以外の動物も植物も、それを知らずに漫然と死んでいく。

 しかし、人間はものを考えるという能力を与えられている。
大自然界の法と万物の興亡盛衰のあとを見て、こういう心、こうい行ない、こういう存在のものが栄え、反対のものは滅ぶんだなぁ、ということがわかり、安心と喜びと満足 ――即ち真の幸福への道を自分から進んで選ぶことができる。
宗教上での「人間に生まれた喜び」というはこの一点をさすのであります。
 宇宙の大法を現わす根元のもの、それを神・仏と呼ぶ

 とにかく大自然界には、今まで述べたような法則を現わす根元のものがあるにちがいない。
それを神と呼び、仏と称える。
お釈迦さまも孔子さまも、イエスさまも、そういう生まれながらにして神仏のよう方々が、それを深く信じておられたことは事実であり、おっしゃったことに違いないのですから、私たちも無条件でそれを信じる。
これがまた無上の楽しみであります。

 私は神仏は信じないという青年に、こんな話をしたことがある。
「キミ、へそがあるか」 「あります」 「へそがあるから親から生まれた証拠だろう。
一ぺん切ったへそだが心で目でつないで見給え。親から生まれた私であることがわかるし、その親にも親があり、親の親にもまた親がある……こうしてさかのぼっていくと、人間の初めての親を生んだオヤサマがあるはずだよ。
それが神であり、仏である。」と申したのです。

 一つのリンゴを見ても、リンゴのなる木が先であるか、種が先であるか、種のあるリンゴの実が先であるか、それはどちらでもよいが、とにかくリンゴの木を生み出し、リンゴのいのちを今日あらしめ給うところの根元の力がなければ、リンゴは存在しない。
その根元の力の働き、即ち自然の大法に従うということは、神仏に従うということと同じ内容を持っているのであります。

 では、大法に従う、或いは神仏に従うというのはどういうことか。
その根本を申し上げます。

 人間には、生まれながらにして肉体と共に持っている心がある。
支那の儒教ではこの心を人心といい、仏教では煩悩といいます。
人心とか煩悩とかいうのは自分中心のこころ。
自分がトクで、自分の感情がスキで、自分のからだがラクで、トクメートル、スキセンチ、ラクミリという目盛の物差で世の中を差し渡る心です。
この持って生まれた欲望(人心)のままに生活すれば必ず×の運命をたどる。

 ところが私共の心の奥に、人心とは全く反対の心――道心というこころ、仏教でいう菩提心があって、かすかながら働いていることは事実であります。
子を持つ親の体験でも正にその通りです。

 この道心(仏心・菩提心)という心の分量(深さ・強さ)がその人の人格です。
そして、人格の分量だけ、人間が求めている幸福が与えられることになっている。
これを明らかにしたのが法華経の教えであります。

 ところが現代の人々は、人格の分量をふやさずに、直接に幸福をつかもうとするから法則に反します。
いくら幸福を求めても求まりません。
根本的に間違っているからです。

 この人生には、人格のわりにお金を沢山持った人も、社会的地位の高い人もいます。
我々はどうしても形で見える財産とか、社会的地位とかにまどわされるが、はたしてそういう人がどんな生活をしているか。
家庭が不和、心配ごとが多く病気がち、子供が不良……などと、幸福の条件がくずれることが多い。

 反対に、豊かな道心・仏心を持ちながら、貧乏で社会的地位も低くて、うだつの上らぬ人を見ると、家庭は平和で心は安らぎ、健康長寿に恵まれ、良い息子を持っているような例が多い。
その人の徳と全く一致しているといえましょう。

 こういうことがはっきりしてくると、ものに対する価値観が変わってきます。
わかりやすく言えば、金や地位が得られるからといって、人格を落とすようなことをするのは損である。
それよりも人格を高めることに役立つなら金や物に損しても、その方が幸せを頂く上にはトクである。
こういう価値観を持ちたいもので、これをはっきり身につけた人を、人生の根本義を把握した人というのであります。
 仏道を実践するのに 二つの道がある

 今日の会合は仏道研修会であります。
仏道とは何か。
宇宙の大法が我々の生活の中で思いとなり、行ないとなり、言葉となっていく
実践の道であります。
仏道の実践とは、人心(煩悩)をどのようにして道心(仏心)に変わるかという一点にあります。

 これには、二つの道があると教えられています。

 その一つには、何をするにも、何を言うにも、また何を思うにも、すべて道心に従うよう、日常の生活の中でくり返しくり返し、積み重ね積み重ね修行して行く方法であります。(自力の道)

 もう一つの道―lそれを浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、どのように受けとっていられたか、例として申し上げたいと思います。

 ご承知のように、親鸞聖人は九歳で剃髪されて二十九歳まで、比叡山で親しく天台の教えを身につけられました。
そして自分の持てる力をふりしぼって道心(仏心)で行ない、言い、思うてみようと努力したけれども、どうしても自分では出来ないということを、とことんまでお気づきになりました。         (終わり)


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