小石浜

岩田恵修 
  
 住職様より「何でも良いから何か書いて見て下さい」と頼まれ、一度は忘れた振りしていたのだが、再度声をかけて下され、大きな宿題を戴き、どうしようか?迷いました。

 自分の生きてきた道を振り返り思い出して見るのもいいかなー、約八十年の歩みは、簡単ではないが、ただ思い出されるままに羅列して見ようと決めました。

 生を受けてより十数回の転居を経験しました。

 まず、生まれて半年たたぬ間に岩田家に養女として・・・、岩田家の両親は乳もなく、今のようにミルクもない時代、それはそれは苦労をして育ててくれたことと感謝しております。

 父親の勤務の関係で小学一年生は輪島女児校、、夏には七尾市の袖ヶ江女児校に、五年生には鵠巣小学校に転校と、家庭にはいろいろな事情があって親子3人がここでやっとそろった生活に入りました。
と同時に自分が養女であることが他人の口から初めて知り、一時は何とも云えない不安な感じでしたが、親子三人の幸せな毎日だったので、いつしか気にならなくなったのですが、驚いた事に、当時、大野町には電気がなく、ランプの生活で、七尾時代との差がひどく、戸惑う日々が続きました。

 女学校に入り、ある作文にランプのことを書いて、「盗作だ」と国語の時間にひどく叱られ、大野にまだ電気が来ていないことを信じてもらえなかった思い出もあります。

 通学は、日本海の日々変化する海を眺め、車一台通ることもなく、道一杯に広がって、友だちと楽しく語り合って、帰りは父と時間を合わせて親子で歩いて帰った事等、両親との幸せな日々が続き、多くの思い出を沢山作ってもらいました。

 其の後、結婚、出産、其の他それはそれは色々あった。

 「盗人の宿をしても子持ちの宿はする物でない」と云われ頃、それでも善き人達の好意によって人の二階借りの生活を転々と続け、漸く自分達の家を塚田町に求めてやっと落ち着いた時は、長男も中学生、次男も小学五年生になっていました。

 主人は、「やっと足をのばして寝れるなー。」子供達は、「これで誰にも遠慮せんでいいね」と喜んでいる姿に、今までの事がすべて消え去りました。ここで二十五年間過ごしました。

 当時は我が家より先には家がなく、稲舟のゴミ焼き場に夜になると裸電灯が一つボーッと見えるのみでした。日本海の池のように静かな姿、冬になると怒濤さかまく時化の日、反対側は一面広々とした田でのどなか風景、道路はたまに通るバスが砂煙を立てて走るのみ、遠くに一ツ岩が悠々とした姿を、我が家からも見えていた通称「小石浜」なのです。この小石浜は自分にとって色々な意味で半生記通い続けた忘れる事の出来ない所です。

 主人と一緒に通勤した道、主人に赤紙が届いた知らせを受け取ったのもこの道、長男を背負って深見小学校まで歩いた道、冬には除雪がなく一本道で大変でした。又、次男を自転車に乗せて鵠巣小に通った道、本当に思い出多い道です。今では立派な道路となって田は一枚も見る事なく、もちろん一ツ岩等、影にかくれどこにあるの?気をつけて見ないと見えないことが多い。

 塚田町での二十五年間、親を送り子育てに夢中、又、甥の子や姪の子達とも一緒に生活したこともいい思い出です。良く聞く「娑婆は思う通りに行かぬ」・・・と、突然の主人の死、神も佛もないのかと、誰にも頼る事もどうする事も出来ない、人間の弱さをつくづく感じました。でも、この地で孫達との楽しい生活も体験させてもらったし、塚田での二十五年間は本当に充実した時だったと今つくづく実感しております。

 昭和四十六年頃より体の変調があり、病名が解らず、又、勤めていたので春休み夏休みと多々病院の梯子、四十九年の終わり頃、床に付く様になり、初めて、膠原病で、特にエリテマトーデスと云う八大難病の一つと解りました。人前に出るのも億劫でした。五十年に、三十年勤めた教員を退職し、治療に専念しました。其の後、友人の勧めもあり、体も少しずつ良くなったので、お花の教室を開く事になりました。花の師、又お弟子さん方の助けがあって、今日まで続けられました。

 昭和六十年より現在の河井町に転居。自分一人からのスタートが始まりました。色々と人それぞれの苦、悩みは当然だろうが、今じっくり考えると長男の交通事故、主人の突然の死、大きなショックを受けたが、どこの誰に譲る事も代わってもらう事も出来ない、我が身、自分に課せられた宿業であったと、今、思えるようになった。(少し遅かったかも)それも主人と早くに別れた事が、逆に人より早く佛縁に逢うチャンスを与えてもらいました。主人のお蔭様と感謝の毎日です。

 東本願寺の帰敬式にも参加させてもらい、佛弟子としての法名も戴きました。どんな名前が戴けるのか、心ワクワク落ち着かぬ一瞬でしたが、法名は「恵修」、初孫の名前が修なのです。これも主人が、自分と子供達、又、孫達との繋がりを満にと考えてくだされたものと嬉しく信心させてもらっております。

 平成十二年七月、肺癌と宣告を受けました。この時も割合、冷静に受け止めることができた。自分に与えられた宿業なら受け止めよう。あとは人様に迷惑をかけぬ様願うのみでした。タクシーで病院に走っている途中、フト、主人の赤紙の来た時の事を思い出し、あの時主人の心の中は?今から戦場に、死と背中合せ、親、妻、子供(お腹に長男が)と別れ、どうなるか解らぬのに、皆からは祝福され、旗を振っての見送りだった。今、自分は何の心配事もない、複雑な思いをしながら医科大へと。

 医師、家族の愛、其の他、友達等にも見守られ無事退院、それから満四年の月日が、その間にも親しい人との別れもあった。癌=死ではない時代になった。早期発見で助かった。すべての人に感謝したい。

 婆ちゃんとなり四人の孫にも恵まれました。何の教育もした覚えもないのに、子供達もそれなりに上手に育ってくれ、今はただ子供達に頭を下げるのみ。最近は曾孫も二人、電話の向こうからの可愛い声を聞くと、本当に有難い気持ちで一杯です。

 亡き父がよく「お礼とげな。」と云っていました。子供の時は別に気にせずに聞いたこの言葉、今は本当に重みのある言葉だと、つくづく思う此の頃です。生みの親、育ててくれた親、主人と五人、自分はその誰よりも長く生かされました。自分では選ぶ事の出来ないよき親、良き夫、良き子供達に巡り逢い、又、良き孫達にも縁を戴き、『何も見えない中にあるこの幸』、本当に最高です。

 いつもお礼をとげております。

 寿命は誰にも解らず、又、どうする事も出来ないのが事実です。生を受けた以上は必ず迎えなければならぬ、いつかは愛しい人々との別れが来る、ならばくよくよしても始まらない。今の最高の気持ちのままで、日頃のお念佛の中で、あと○○日するといいことがある、あと○○日たつと楽しい事があると云った感じで楽しく死を迎えられる物だろうか?

 次の転居はお浄土にしたいと思っています。命日はいつまでも子供達や孫達のお念佛と変ってくれる事を念じて、この辺で。

  平成十六年七月


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