小 又 一 正

 

時々、私達の同年輩が集ると、つい戦争の話になり、自慢話・手柄話・苦労話と相場がきまっており、側に聞いている人は、「また戦争の話か、聞きあきた」と言われます。

全くそのとおりで、今では敗戦の兵多くを語らずで、話しても遠慮がちにするようにしています。

特に私は6年9ヶ月の軍隊生活の大半は、初年兵の教練助手と部隊本部で事務的な仕事が多かったので、実戦の経験は少なく、お恥しい兵隊でした。

実際に戦争らしい場面に出会ったのは、昭和17年2月14日・15日のスマトラ島(インドネシア)パレンバン精油所へ落下傘降下して1昼夜交戦したのが最初で、その他に昭和18年7月、広島港からぺリリュー島(パラオ諸島)に向う輸送船(民間の貨物船を軍が徴用した船)で、約30隻の船団が航行中、アメリカの潜水艦の攻撃を受け、友軍の護衛艦が撃退して難を逃れたこと。

昭和20年4月、宮崎県川南の兵舎を、イギリス軍の艦載機約30機が来襲したとき、砲火をまじえて撃退し、兵舎の近くの鉄道線路と鉄橋にわずかな損害を受けた程度の体験しかありません。

そんなわけで、体験談となると、あの当時日本中をアッと驚かせ、超特大ニュースとして取りあげられた「空の神兵天降る、スマトラの油田わが手に墜る」と大きく報道された、あの戦いの前後のことしかありませんので、少々自慢話のようになって恐縮ですが、思い出したことと、戦後発刊された記録を参考にして書いてみますので、お許し下さい。

 

 

歩兵から落下傘兵へ

 

昭和16年当時、満洲国牡丹江に駐屯の、歩兵第7聯隊第1大隊本部に勤務していた私は、「機動部隊要員下士官募集」の呼びかけに応募し、9月中旬、応募した他の下士官12名と共に牡丹江出発、埼玉県所沢の、陸軍航空整備学校で、身体検査・知能検査(当時の少年航空兵採用試験と同じ)を受け、12名中8名合格の中に入れれて頂き、翌日から地上訓練が始まる。

まず、マット体操、柔道の“受身”の要領で、前方回転・後方回転・右横転・左横転等、クタクタになるほど鍛えられ、夕方訓練がすんで階段を登るのに、四ッン這いになって脚を引きづりながら登ったことがありました。

この“受身”の要領を習得すると、今度は機胴体訓練(飛行機の乗降口の部分だけの、高さ5メートル位の跳台)、両腕両足を真すぐ延ばして、約45度の角度で体を前に傾け、「ヤアッ」とかけ声と共に地上に落下、着地の時、あの受身の要領で衝撃を柔げケガをしない訓練が繰り返し行われ、一応の地上訓練が済むと、落下傘慣熟訓練である。

これがまた話題になった、仮装道中だったのです。

当時、確か東京多摩川遊園地と言ったと思いますが、そこに“読売落下傘塔”という高さ50メートル程の塔で、頂上から7・8メートル位の腕木が出ていて、その先からワイヤーで直径5メートル程の鉄の輪が吊るされ、地上で落下傘の周囲を鈎〔カギ〕に結合して、落下傘にぶらさがったまま、頂上までゆくと、鈎が自動的に外れ、体はゆっくり、ゆれながら地上に降りる仕掛けになった遊園地の施設で、当時としては珍しいものでした。

これを利用して「慣熟降下」つまり落下傘をつけて高い所から降りる感触を習得する訓練だったのですが、所沢の陸軍航空整備学校から遊園地までの道中姿が変っていたのです。

当時まだ日本に落下傘があることも、訓練中であることも知らない時ですから、防諜〔ボウチョウ〕(スパイの活動を防ぐ)上、軍服ではよくないというので、東京市内の各大学の古着を多量に集めて来て、これを各自、体に適合する服と帽子を着用し、靴は陸軍の体操靴(登山靴の甲の部分が布製になったような靴)を全員履き、電車で1人1人キップを買って乗ったのですが、中には帽子が明治で服・早稲田といった者がいて、偽学生と見破られ、本物とケンカになったり、交番に連行されて、身分も氏名も言わないものだから、もう少しで警察へ引渡される寸前に、駆けつけた教官(背広姿)が、名刺を出して事情を説明し、帰してもらったこともあり、後で笑話になったこともありました。

所沢を出る時、「電車の中や、街中であまり話をするな、特に相手を呼ぶ時、○○さんと呼べ」と注意されていたのですが、つい「○○軍曹」「○○班長殿」と言って、周囲の人から怪奇な目で見られたこともありました。

 

 

太平洋戦争勃発

 

所沢で地上訓練が終わり、昭和16年12月8日朝、宮崎県新田原の陸軍挺進練習部へ移動のため、校庭に整列して出発命令を待っていると、教官が出て来て
「重大ニュースを伝える。今朝未明、我が帝国は米・英と戦闘状態に入った。今までの訓練に更に訓練を重ね、滅私報国に殉ぜよ。」
と訓示された。

いよいよ来るものが来たかと、身が引き締まるというか、武者震いというか、感動というか、表現しがたい緊張感が全身にみなぎったことを覚えています。

軍用列車で九州へ向かったのですが、窓は鎧戸〔ヨロイド〕を下げ、外からは兵隊が乗っていることが判らないようにして走っていたのですが、沿線の人達はそれと判ったのか、または宣戦布告のニュースに興奮しているのか、窓の隙間からわずかに外を見ると、作業の手を止めて“万才”“万才”と見送ってくれたのを見て、「どんなことがあっても勝たねば申し訳がたたない」と、心に誓ったのですが………。

当時はまだ関門トンネルが開通していなかったので、下関から向う岸の門司まで舟で渡ったのも、今では遠い昔話になりました。

新田原に着いた翌日から、本物の輸送機(100式輸送機)で慣熟飛行・単独降下・集団降下・戦闘降下と促成訓練が行われた。

後で知ったことですが、私が歩兵第7聯隊から「機動部隊要員下士官募集」に応募したのが第4次募集だったのです。

それ以前に、第1次〜第3次要員(兵長以下も含み)に応募した人達は訓練を終え、挺進第1聯隊として編成され、パレンバン作戦に使うべく、開戦直前の昭和16年12月3日門司港を出帆、南方に向って航行中の昭和17年1月3日、乗船「明光丸」は積荷の焼夷弾が自然発火して船火事を起し、南支那海に沈没してしまった。

幸い人員は全部救助されたが、落下傘をはじめ貴重な装備資材一切を失った。

 

 

動 員 下 令
 

そこで、まだ基本訓練中だった私達第4次・第5次要員の訓練時間2ヶ月を、2週間に短縮特訓し、挺進第2聯隊を編成、急逮第1聯隊の身代わりとして動員下令(戦地への出動命令)。

いよいよ待ちに待った初陣。

「手柄たてずに死なりょうか! やるぞッ……。

私は第1中隊指揮班に編入され、陣中日誌と報告事務の担当を命ぜられた。

ここで余談になりますが、新田原出発の数日前、長髪を7・3に分けた少尉1名と軍曹4名が来て、「私達も一緒に降下するので、落下傘の着け方や降下要領を教えてほしい」と、中隊長にお願いしている。

中隊長は「日本男子ならビクビクするな、落下傘を正しく着けて、手と足を延ばして跳べば必ず開く」と励ましながら教えている。

変な兵隊だなあ、あんな長髪の兵隊が戦闘の間に合うのかなあと思っていたが、パレンバン作戦には、無くてはならない特務機関兵だったことが後でわかりました。

昭和17年1月12日新田原を出発、高鍋駅から列車で門司港に着き、先に沈没した第1聯隊分と、我が第2聯隊分の貨物が、埠頭に山積みされている。

これを輸送船に今夜中に搭載せよとの命令。

船舶関係者でさえ無理だろうと思っていたのを、徹夜で敢行したのを見て「こんな気迫のある部隊は初めてだ」と、驚嘆したのです。

下士官以下全員が、嬉々としてて手順よく敏捷〔ビンショウ〕に荷物を運ぶ作業振りを、巡察に来ていた憲兵軍曹が、
「お前達は何部隊だ」と聞くので、
「天狗」と答えると、
「そんな部隊を聞いたことがない、部隊名を言え」というので、
「それ以上は言われん」と答えると、
「俺は憲兵軍曹だ、憲兵にも言えんのか」と脅嚇〔イカク〕するように言うので、
「俺は曹長だ、見たとおり殆ど曹長か軍曹だ、憲兵だろうが警察だろうが言われん、サァどいた、どいた」と押しのけて作業を続ける指揮班長の気迫に圧倒されたか、
「ご苦労さんです」と敬礼して去り、少し離れた所で別の下士官に、
「お前達は覆面部隊か」と聞くので、「
マァそんなもんだろう」と相手にならず、作業を続けたのに憲兵も感ずるところがあったのか、それ以後は黙って見守っていました。

所沢での訓練中から「防諜〔ボウチョウ〕」精神を叩きこまれ、親兄弟にも絶対に言うなと厳しく注意されていたが、特に今度の移動中に聞かれたら「天狗」だけ答え、それ以上は他部隊の将校にも言うなと厳命されていたのです。

翌日、門司港を出港して間もなく、中隊長から
「我々の部隊は『防諜精神旺盛にして、責任感充実した優秀なる模範部隊である』と西部軍司令官からお誉めの言葉を頂いた」との伝達があった。

あの憲兵軍曹が上司に報告し、西部軍司令官の耳に達したのでしよう。

挺進第2聯隊は、全軍から数次にわたり選抜された現役兵で編成され、編成下令(1月1日)と同時に、動員下令(戦地へ出動命令)と、あわただしい日程だったため、初めて顔合せする者が殆どで、名前を覚えるだけでも数週間かかりました。

聯隊の編成を1ヶ中隊に例をあげれば、全員160名中、将校・准士官10名、下士官100名、兵50名で、一般の聯隊には見られない下士官主体の部隊だっのです。

だから軍隊語で言う「使役〔シエキ〕」(雑役・作業員)は下士官で占められていたので、他の部隊から見たら異様に感じただろうと思います。

余談になりますが、「衛兵司令○○曹長」「表門歩哨○○軍曹」「弾薬庫歩哨○○伍長」等々、又、不寝番も下士官が大半でした。

後日、宮崎県の兵舎に帰還して間もなくの頃、聯隊長(少佐)が
「わしは恐れ多いが、天皇陛下より優遇されている、宮城二重橋の歩哨は上第兵だが、この聯隊の表門歩哨は曹長か軍曹だ」と言われたことがありました。

 

 

南ヘ南ヘ

 

昭和17年1月15日、輸送船「高岡丸」「ハーブル丸」に分乗して門司港出帆、一路南へ向ったが、1月の玄海灘は怒涛逆巻く〔ドトウサカマク〕慌海〔コウカイ〕、3万トン級の高岡丸の甲板を洗い、木の葉のように前後左右に揺れ、肌を刺す寒さに夏服と一枚の毛布、酷寒と船酔いでさすがの精鋭も意気消沈。

1月21日台湾の高雄港に入った時は、皆ホッとして正気が蘇えり〔ヨミガエリ〕ました。

23日高雄港出帆、太陽輝く洋上を南へ大船団(隻数は不明でしたが、見渡す限り水平線上まで輸送船と護衛艦)は進み、1月28日無事仏印(フランス領インドシナ)のカムラン湾に入港、バイゴンに上陸、直ちに資材の陸揚げ作業にかかったが、搭載時とは反対に、南国の強い炎天下、想像以上の難作業でしたが、全員志気盛んで仏印上陸第一夜は、テントの中で夜を明かし、陸揚げした資材を貨車積みし、部隊は2月2日バイコンから、薪(チーク材)を焚く〔タク〕機関車に引かれた列車でサイゴン(ホーチミン)着、ここからトラックで、途中、所々、橋のない川を渡し舟に乗換えては、2月3日カンボジャの首都プノンぺンに到着。部隊はプノンぺン駅前の洋風建物を宿舎にして、作戦準備に入った。

建物はコンクリートの2階建だが、相当年数がたっているらしく、ヤモリやカッコウ(トカゲの一種で、夜カッコウと鳴き体長30センチ位で灰色)が住んでいて、なれるまでは薄気味悪かった。

あちらでは虫を取って食べるので大切にされていました。

前にも述べた挺進第1聯隊の海難で、奇襲作戦が当初計画の1月22日頃を断念し、2次計画2月9日、3次計画2月12日と変更され、決行した2月14日の決定は数日前だったそうですが、移動中の私達は知る由もなく、後で聞いて、上部指令官も苦労されただろうと想像します。

 

 

奇襲落下傘降下成功
 

2月11日プノンぺン飛行場出発、同日マレー半島スンゲーバタニ飛行場着、2月13日スンゲーバタニ出発、同日最前線基地カハン飛行場着、1泊。

ここで最後の打合せや指示命令を受け、日本酒や寿司が出され、
「これが最後の日本の味だ、心おきなく呑んで腹一杯食って征け」と、
第3飛行集団長の心尽しのご馳走を頂き、互いに酌み交わし、今生最後の舌鼓〔シタヅツミ〕を打ち、2時間程の仮眠で、2月14日午前7時(日本時間)に起こされ、装備を着け飛行場に整列したが、まだ夜は明けていませんでした。

友軍機が曳光弾〔エイコウダン〕(光を発しなら飛ぶ弾)を空中に数10発撃って出陣を祝ってくれました。

聯隊長の号令で「東方遥拝」「故郷の両親に遥拝」を行い、いよいよ輸送機(ロ式)に搭乗、8時30分発進、一路パレンバンヘ向う。

必ず死ぬんだ、生きて帰らないのだ、と覚悟すると案外落ちつくものです。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」とはこんな心境になるのでしょうか。

怖いとか恐ろしいとかを感じなくなるものです。

遊覧飛行機にでも乗っているような、下を眺めたり、護衛の友軍機を眺めたりで、張りつめた感じはしませんでした。

護衛に当ったのは当時有名だった「加藤隼戦闘隊」で、速度の遅い私達の輸送機を後になり前になり、上下左右と、まさに隼の如く軽快に飛びながら護衛してくれました。

まだ陥落1日前のシンガポールの黒煙を左に見ながら、快適な飛行を続け、ムシ河河口付近で、飛行場奇襲隊と精油所奇襲隊に分かれ、更に私達第1中隊の指揮班・第1小隊・第3小隊の主力(中尾中尉以下60名)は西精油所(BPM)と、第2小隊(長谷部少尉以下39名)は東精油所(NKPM)へ、幅約100メートルのムシ河支流を狭んで2隊に分かれ、11時30分、先頭の司令機が翼を上下に振ると、輸送機内のブザーがけたたましく鳴り、満を持した降下兵は大空に次ぎ次ぎと純白の花を開いて舞い降りる。

別の重爆機から落下傘をつけた物料箱(等身大)が、兵員と同数位投下されたのだから、地上から見ていると大部隊に見えたことでしょう。

食事中だった敵の狼狙ぶりが、どんなものだったかを、逃亡した跡の兵舎を見て想像できました。

まさか落下傘部隊が来るとは思っていなかったらしい。

徹底した防諜教育が効を奏したのです。

私の乗った輸送機は中隊長以下12名で、地上に着いて集結する時の事を考え、降下順は1番〜5番は下士官・兵、6番に中隊長、7番〜12番は下士官で、私は陣中日誌を書く役目があり、記録をメモするため最後尾に降下したが、すぐ近くに地上からの攻撃砲弾が炸裂している。

遅れてならじ、気合を人れて11番の後を追った。

出発前に航空写真を示され、降下地一帯は草原で、地形は平坦だと聞いていたが、私の着地した所は、鋭い〔スルドイ〕針のある15メートル位の灌木〔カンボク〕の繁ったジャングルで、首まで水につかる無気味な所でした。

この時持っていた武器は、拳銃1丁に弾30発と手榴弾2発、刃渡り18センチ位の短剣1本だけ、頼みは別に投下された物料箱を見つけて装備しなければならないが、それらしいものはありません。

もがくようにして落下傘を体から外し、ジャングルの切れ目に向って進んでいると、「誰だ!」と日本語が聞える。

声の方に向って「小又です」と答えると、近付いて来て、
「おォー小又軍曹か、これで俺も助かった」と、指揮班長の勝浦曹長が言われるのです。

私も同じ思いだったのです。

敵地のジャングルで、一人ボッチになった心細さは同じだったのです。

それにしても、部下の私をこれほどまでに信頼していて下さるのかと思うと、
「よし、この人のためなら弾避け〔タマヨケ〕になってでもお守りしよう」と心に誓いました。

あの時の言葉は今も忘れられず、家族にも時々語っています。

勝浦曹長は「あっちに道があるらしい、あっちへ行こう」と進みはじめると、先に降下した者が敵と交戦しているらしく、激しい銃声が聞こえてくる。

早く合流しようと気逸る〔キハヤル〕が服はズブ漏れ、靴の中は水で一杯、気があせるばかりでドタバタといった姿。

その時、人家の陰に自動車のボンネット部が見えたので、
「曹長殿、あそこに自動車があります、あれで行きましょう」と言うと、
「お前運転できるのか」、
「ハイ免許証とって4年になります」、
「そうか、それにしよう」と自動車に近付いて見ると、1934年型のシボレーで、入隊前に横浜で乗っていた車と同型だから自信満々。

ドアを開いてみるとキーがない。

人家の玄関に入ったばかりらしい靴跡がある、ドアを開けようとするが開かない。

ドンドン叩きながら「カムィーン、カムィーン」と呼ぶと、どこかで見ていたのか、ドアを少し開いて
キーを差出してくれた。

サンキューと受取り、7・8人集ってきた兵隊を、ステップやフェンダーの上まで乗せて、銃声の方へ約300メートル程行くと、友軍に止められ、
「これを積んで走ってくれ、敵は100メートル程前にいる。早くこれを友軍に渡してくれ、待っている。お前達は走って行け、弾が来るから注意しろ」
と、物料箱を積んでいるうちに皆走ってゆく、私も早く渡さねばと7・80メートル程行くと、又、友軍に止められ、
「ここから先は敵がいるからここで止めておけ、物料箱があったか、早く取り出せ」
と車から降ろし、私が道端に車を寄せている間に5・6人に渡された。

私も小銃と弾をもらって精油所構内ヘ通じる門を入ると、曽根軍曹が倒れている。

アレッと見ていると「伏せ、伏せ、弾がくる」と言われて、伏せたとたん「ピューン」と頭上を弾がかすめました。

「間一髪」とはまさにこの時で、初めて弾の下を体験しました。

付近は下級社員の社宅らしく、2世帯1戸建のような建物が、道路を狭んで両側に100メートル程続いている。

敵は地の利を生かして物陰から狙撃してくるので油断できない。

市街戦を繰り返しながら敵を追いつめ、中隊の主力も集結したので、精油所西側のトーチカを攻撃、果敢な突撃でこれを奪取、更に約60名の敵と遭遇、これと応戦、敗走する敵を追跡しながら、精油所構内(現在日本でテレビや写真で見る、四日市コンビナート工場のようで、巨大な貯蔵タンクが5・60基あった)に突入、約2時間の地上戦で敵を撃退、午後1時30分頃、中央トッピングに日章旗が翻った〔ヒルガエッタ〕。

小川軍曹の分隊が敵の行動を注意しながら迂回して、ドッピングに登ったとのことで、その迅速さには皆感心しました。

敵はどこかに敗走したらしいが、反撃するらしい様子もないので、更に部隊を集結し、トッピング南側50メートル程の所に、お誂え〔アツラエ〕向きの防空壕〔ボウクウゴウ〕があったので、そこに立籠って〔タテコモッテ〕夜に入るのを待った。

この防空壕は周囲を高さ2メートル程の土手を築いた立派もので、このお陰で、それから以後の戦闘には、1人の死傷者も出なかった。

 

 

血の1滴が炎に

 

夜に入って間もなく、300メートル程離れた貯蔵タンクが爆発、猛火と黒煙が夜空に映える。

30分位すると隣の夕ンクが過熱して又爆発、直径50メートルもあろうかと思われる、巨大タンクの屋根が爆音と共に木の葉のように舞い上がり、メラメラと炎の柱が天をも焦がさんばかり。

日本では「石油の一滴は血の一滴」と叫ばれ、石油の代りに松の根から搾取した、コールタールのような嫌な臭いの「松根油〔ショウコンユ〕」で飛行機を飛ばしているのに、
「アァー勿体ない、何とか早く消火して、少しでも日本へ送れないものか」
と、思ったのは私1人ではありませんでした。

夜半になり約200名の敵が、3回にわたり攻撃して来たが、その都度撃退した。

有難いことに、敵は炎を背にして立った姿勢で、堂々と隊列を組んで向って来る、こちらからは格好の射撃目標、敵は手榴弾や腰撓〔コシダメ〕で攻撃して来るが、「まだ撃つな、まだ撃つな」と照準を定めて待っている。

約30メートル位まで引き寄せ、「撃て」の底力のある低い声で、一斉に火をふく。

敵は仔犬の泣き声のような悲鳴をあげて敗走する。

30名位の死体を残したままでした。

この時、沈着冷静に指揮されたのは、歴戦の勇士、重機関銃小隊の小隊長・古小路啓一中尉でした。

こちらは限られた弾しかないのだから、一発たりとも無駄はできない。

一発必中戦法で、逸る〔ハヤル〕気持ちをおさえ、命令を守り、団結した力が勝利の要因となりました。

それから約2時間後、ボーッと汽笛がムシ河の方から聞こえてきました。

精油所関係者とその家族、敵兵共に船で逃走したことが後でわかりました。

一方、東精油所(NKPM)に降下した第2小隊は、猛烈な攻撃を受け、小隊長 長谷部少尉以下3名の戦死者を出したが、丹羽曹長が小隊長代行となり、怯む〔ヒルム〕ことなく攻撃続行、午後3時、敵前約100メートル迄達したが、湿地のため前進困難となり、夜襲を敢行することを決意し、陣地を補強しながら夜を待ちました。

午後11時、敵陣地に攻め入りこれを奪取、更に攻撃を続行して、15日午前1時完全に占領しました。

敵はこの夜襲に耐えきれず、見切りをつけて退却する時、精油所施設を爆破し、火災を生じさせ、川を隔てた西精油所同様、猛火と黒煙は天を焦し〔コガシ〕ました。

後で調べたところによると、致命的な破壊ではなかったとのことでした。

私達西精油所の中隊主力は15日朝、敵兵のいないのを確認し、精油所構内から社宅へ移動するため、中間の道路上で休憩していると、300メートル位後方から隊列を組んで、堂々とこちらに向って来る敵兵の一団を発見、誰かが「敵兵約20名がこちらに向っています」と叫んだので、皆一斉に銃を構えて応戦の体勢をとる、中隊長は双眼鏡で確めると、彼等は何か白い物を振っているのが見えた。

中隊長は「降参の意思表示をしている、撃つな」と命令したので、構えたままで近づいて来るのを見ると、なる程ハンカチ布のような白いものを振って投降して来た。

「武器を渡せ」と言っと皆素直に渡し、これで安堵したか笑顔を見せる者もいます。

聞くと、昨夜主力が船で逃げる時、精油所東側の一角に配置されていた高射砲部隊の一部で、置去りにされた16名のイギリス軍だと判りました。

そこから約1.5キロメートル程の社宅へ入るため、投降兵を中央に、前後に私達が狭む隊形で進んで行くと、現地人達は私達に、親指を立てて勝利の祝福の歓声をあげてくれ、投降兵には軽蔑と憎悪の罵声をあびせかけています。

社宅前について次の指示があるまで休憩していると、ゾロゾロ後についてきた現地人は、私達一人一人に握手しては敬意を表してくれます。

中程に勝浦曹長が、右腕に軽傷を負い、三角布で首から吊っているのを見て、握手しようとした手を引きこめ、涙を浮かべながら両手で左手をいたわるように包み、腰を屈めて拝んでいた老人の姿が印象に残りました。

 

 

鳴呼「戦友」

 

社宅は軽井沢の別荘地を思わせる豪家で、芝生の広々とした庭、白や薄緑色に塗られた洋風の別荘さながら、私のような貧乏育ちには近寄り難い威圧を感じた。

約30戸位あっただろうか、その中で1番大きい家に中隊指揮班、戦死者の遺体、投降した敵兵が共に入り、他の小隊は3戸に分かれて入り、日本軍の後続部隊の到着を待つことになりました。

家は豪華だが、住んでいた社員が逃げる時、電気・水道を切断したらしく、電気も点かず、水も出なかったが、幸い近くに奇麗なプールがあったので水に不自由はしなかった。

また、クリスマスに灯すような美しい絵の西洋ローソクが沢山あったので、夜も不自由しなかった。

又、お風呂屋さんの浴槽に蓋をしたような大きな冷蔵庫が2つもあり、中には缶詰、清涼飲料、ワイン、ウィスキー等が4tトラック1台分位ありました。

お金持ちの贅沢〔ゼイタク〕振りを伺い〔ウカガイ〕知る、初めて口にする珍しい食べ物飲み物。

「ケンカする時は、金持ちとして勝たなきゃだめだなあ」と冗談を言う者もいました。

15日夜、戦死者の遺体を1室に安置し、美しい絵の西洋ローソクを立ててお通夜をしました。

その時、誰が見つけたのか、日本の軍歌「戦友」(ここはお国の何百里……)のレコードをかけたのには皆驚くと同時に、今この場面にピッタリのメロディを泣きながら聞きました。

それにしても、どんな人がこの家に住んでいたのだろうと不思議でした。

翌16日、遺体を荼毘〔ダビ〕に付す者、未収容の物料箱や落下傘を捜しに行く者、洗濯する者など手分けして作業を始めました。

降下した時、着地した所に脱ぎ捨ててきた落下傘が見付かりません。

現地人が持ち去ったことは確かですが、これをどうして回収するかで論議していると、私達と一緒に降下した特務機関の下士官2名が来て、
「落下傘や日本軍の武器を持って来た者に賞品を与える。もし隠していることが後で分かっ場合銃殺にする」
という意味のポスターを、現地語に書いて、要所々々に貼り出すと言って、作業に取りかかるのを
見て、「この人達はこんなことをする任務だったのか」と初めて知り、多種多様な兵隊も必要なことを教えられました。

降下以来一度も顔を見なかったが、現地人と同じ服装の忍者兵になっていました。

ポスターの効果は翌日から現われました。

持って来た者には戦利品の缶詰や衣類を渡すと、皆喜こんで帰って行きます。

同じ肌色の東洋人としての親しみを持っていたのも事実です。

 

 

「白馬の天使」の代役

 

あの時、現地人から聞いた話によると、彼等の宗教はイスラム教で、予言者マホメットが
「今から1300年(?)の後、白馬に乗った天使がお前達を助けに来る」
と予言した年が今年に当るから、
「私達を助けに来た天使に間違いない。白馬ではなかったが、白い落下傘で天から来たのだから、白馬の天使と同じだ」と信じて疑わないのです。

15日朝、社宅に入った時、私達に握手をして回った老人は当地の長老で、1番先に敬意を表わしたのだそうです。

「へェー、白馬の天使か」と、悪い気持ちはしなかったが、こそばゆい思いをしました。

なるほど、戦後オランダ領から「インドネシア」として独立するきっかけとなったのだから、予言が的中したのかも知れません。

彼等に喜こんでもらえただけでも、怪我の功名でした。

 

 

猛炎鎮火

 

社宅に入って間もなく、何所から来たのか、新潟石油の技士という人が10名程到着して、西精油所は明日中に消火できます。

東精油所は1週間位かかるでしょうと言って、作業にかかり、約束どうり鎮火し復旧作業も順調に進み、4月20日には第1精油所の卜ッピッグの火入式を行い、21日には送油を開始したそうです。

 

 
飛行場降下の聯隊主力
 

飛行場に降下した聯隊主力(聯隊長以下180名)も、苦戦を繰り返し、14日午後9時頃完全に占領しました。

この戦闘で、落下傘部隊の死傷者は、聯隊全部で、

戦死者 38名(将校2名、下士官16名、兵20名)
生死不明 1名(下士官)
負傷者 50名
(この戦死者、下士官16名の中に、小伊勢町出身の松岸信雄軍曹が飛行場の戦闘で戦死したのも含まれています)

2月16日、ムシ河(1万トン級の船が航行可能)を溯上〔ソジョウ〕して来た第38師団に占領地を引継ぎ、私達落下傘部隊は、2月17日約4キロメール離れたパレンバン市内にある、オランダ兵舎に移り
聯隊主力と合流、ここで1週間滞在しました。

 

 

昨日の敵は今日の友

 

15日朝、投降した敵兵と私達指揮班は同じ家に入り、「昨日の敵は今日の友」となり、タバコを分けあったり、身振り手振りに、少し英語の話す者もいて、だんだん打ち解け、家族の写真や恋人の写真を見せては、楽しんでいました。

私にも写真を見せろと言うので、「日本の兵隊はそんなものを持っているとピンタだ」と自分の顔を叩くまねをすると驚いていた。

あの中に18歳で競馬の騎手をしていたという童顔の少年兵もいたが、どうなっただろうか。

2月17日、私達はパレンバン市内のオランダ兵舎に移ることになり、投降兵は南方軍司令部に引渡すことになったので、16日夜、お別れパーティを開いて、お互い別れを惜んだ。

中隊長は軍人には珍しくダンスも踊れば、アコーデオンも弾くハイカラさんでしたから、歌ったり踊ったりして楽しんだ。

翌日軍司令部から将校と憲兵が来て、連行して行ったが、どうなっただろう。

日本軍の捕虜収容所に入れられ、ひどい目にあわされたのではないだろうか。

個人的には何の恨みも憎しみもない人間同士なのです。

彼等も戦争を憎み「早く戦争がやんで、国と国が仲良くなればよい」と言っていた。

 

 

シンガボールで将校待遇

 

2月24日、パレンバン埠頭を輸送船で出帆、2月26日、陥落して10日後のシンガポールに入港、直ちに上陸、シンガポール第1級のシーピューホテルに2泊した。

このホテルはシンガポール陥落後、日本軍将校の宿舎になっていたが、私達のために一時開けてもらい将校待遇を受けました。

南方軍司令官の計らいで労をねぎらってもらったのでした。

夕食の席上、聯隊主力と飛行場に降下した、五月女軍医中尉が背負って降下したという愛用の横笛で、八木節や荒城の月などの懐しい名曲を吹奏して慰めてくれた。

この人も軍人らしくない気さくなハイカラさんでした。

帰国後すぐ軍医大尉に昇進された。

2月28日列車でシンガポール出発、プノンべンに向った。

途中1ヶ所に2日も足止めされたりの超鈍行で、8日もかかって、3月8日プノンぺンに帰った。

どこの国でも同じらしいが、商人の商魂というか、「あきない」の「たくましさ」には感心した。

特に女性はあつかましい。

タイのバンコク駅に着くと、どこからか「あなた、あなた、バナナ、バナナ」と女性の日本語が聞こえる。

久しぶりに聞く黄色い日本語に、窓から見ると、若い女が大きな籠にバナナを盛りあげて売りにきたのだ。

1房の値段を聞くと指2本示す、5円の軍票を出すと、「おつりがない、これ全部買ヘ」の手振り、戦
友に「こまかいお金ないか」と聞くが、誰も持っていない。

仕方ない全部買って皆んなで食べようということになり、一籠全部買った。

初め2・3本は珍しいので食べたが、まだ沢山残っているが誰も見向きもしない。

数えてみると50本以上ある。列車内の退屈しのぎに1本、また1本と2日間に、私1人で全部食べた。

それから1週間程バナナのゲップが上ったことを思い出しました。

 

 

「空の神兵」にさせらる

 
プノンぺンに帰って間もなく、遺骨を内地送還することになり、将校を長とする奉持者が決まり、内地へ向った。

日時や人員数は忘れましたが、20日程して帰って来た人達の土産話が面白い。

「俺達は空の神兵だぞ、内地の新聞・雑誌は空の神兵で満載だ」と、新聞や雑誌を土産に持って来てくれた。

「すごい人気だ」
「空の神兵のレコードが出て、何所へ行っても聞えてくる」
「宮崎県では提灯行列があったそうだ」と、久しぶりに聞く内地の様子に、
「喜びと責任を果たし得た満足感と、落下傘部隊に入ってよかった、これからもやるぞ!」と闘志がわきました。

 

 

石油と戦争
 

大平洋戦争はABCD包囲陣(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)による対日経済封鎖が、その原因の一つであったとすれば、石油の宝庫、蘭印(オランダ領、東インド)攻略作戦は日本にとって重大な戦略目標でした。

当時、パレンバンの石油産出量は、年間約300万トンで、蘭印随一の油田地帯でした。その頃我国の年間所要量が500万トンだったから、パレンバン精油所の価値が如何に大きかったかが解るでしょう。

後日判ったことですが、折角手にした石油が、戦況我に利あらず、昭和19年8月と、20年1月下旬の連合軍の本格的空襲で、パレバン精油所施設は徹底的に破壊され、輸送路も完全に断たれ、「光島丸」「富士丸」が1万6千キロリットルの石油を積み、徳山港に無事到着したのが最後で、昭和20年3月24日、この日をもって南方の石油は1滴も入らない、無惨な姿の破局でありました。

【「証言の昭和史」C学習研究社刊より】

戦後10年程たって聞いた話ですが、パレンバンのガソリンと、日本のガソリンのオクタン価の違いで、日本の飛行機のエンジンの多くが、使いものにならない状態になったそうです。化学者がいなかったのか、時間の余裕がなかったのか、残念でなりません。

  

 

内地帰還
 

昭和17年6月、南方進攻作戦は一段落を告げ、第1挺進団(挺進第1・第2聯隊、飛行戦隊)は内地に帰還することになりました。

6月下旬、思い出のある門司に上陸、第2聯隊は兵舎の都合で、熊本県菊池飛行場に隣接する廠舎〔ショウシャ〕に入りました。

私はこれからまだ、3年2ヶ月の軍隊生活が続くのですが、書き残す程のこともありませんので、省略します。

参考までに、私達に与えられた任務や期待が、どのようなものだったか解って頂けると思いますので、出陣前後の「訓示」「感状」を書き添えます。

(原文はカタカナですが、ひらかなの現代かな使いに直します)

 

 

訓 示
 

大東亜戦争正に酣〔タケナワ〕にして、敵の牙城〔ガジョウ〕新嘉坡〔シンガポール〕の攻陥目睫〔コウカンモクショウ〕に迫り、戦局更に一躍進を見んとするの秋〔トキ〕に方り〔アタリ〕、我陸軍嚆矢〔コウヤ〕の挺進〔テイシン〕作戦を決行せんとす。

諸士選ばれて此の壮挙に参加す、諸士の栄誉や無上なりとや言うべく、其の責務や重大なりとや言うベし。

惟う〔オモウ〕に事を成すに方り周到なる準備と、果敢決行の大勇猛心とは必須の要件なり、況んや〔イワンヤ〕本作戦に於てをや。

諸士は寸刻を惜しみて更に準備の周到を期し、一度挺進して之を断行するや、疾風迅雷〔シップウジンライ〕敵をして対応の策なからしむるを要す。

之がため須く〔スベカラク〕肉を斬らして骨を断っ捨身の戦法に徹し、初めて克く〔ヨク〕赫々〔カクカク〕の戦果を期し得る所以〔ユエン〕を肝銘〔カンメイ〕すべし、而して〔シコウシテ〕此の壮図〔ソウト〕たるや、実に全軍凝視〔ギョウシ〕の下に決行せられ、皇国戦史に不滅の光輝を放つものにして、諸士の壮途に対しては必ずや天地神明の加護あらん。

諸士よ勇みて征け。

昭和17年2月14日

第3飛行集団長 陸軍中将 菅 原 道 大

 

 

訓 示

 

我が部隊に与えられた攻撃目標、パレンバンは将に〔マサニ〕対蘭印〔ランイン〕作戦の天目山である。

抑も〔ソモソモ〕挺進の要訣〔ヨウケツ〕は飽く〔アク〕迄急襲に徹するにある。

既に作戦任務は与えられた、要は攻撃精神を最高度に発揮し、奇襲につぐ奇襲を以てする一〔ヒトツ〕あるのみ。

若しそれ戦闘の外観〔ガイカン〕華麗〔カレイ〕を予想するもの有りとすれば、思わざるの甚〔ハナハダ〕しいものにして、その余幣〔ヨヘイ〕の及ぶ所、真に測るべからざるものあるべく、最後の一兵に到る迄任務に邁進〔マイシン〕する必要は、予の平素諸子に要求せる所にして、その精神の地道なるは一般地上戦闘員に
比し、勝るとも劣らざるものである。

諸子は深く思いをここに致し、挺進報国の心底に徹しつつ、各任務に向い隊長を中心とする、熱火の一丸となって邁進せよ。

昭和17年2月14日

挺進第2聯隊長 陸軍少佐 甲 村 武 雄

 

 

感 状

 

第一挺進団パレンバン進攻部隊 

之に直接協同し挺進せる飛行部隊

右諸隊は陸軍最初の落下傘部隊並に協力部隊として、2月14日・5日に亘り空地の抵抗を破砕しつつ、寡兵長駆〔カヘイチョウク〕決死敵中に投じ、南部スマトラの要衝〔ヨウショウ〕パレンパンを奇襲し、敵の根拠飛行場を其の破壊に先だち占領せり、此の破天荒の行動は南方軍の先鋒として克く戦機に投じ、蘭印馬来〔ランインマレー〕両方向を分断し、且〔カツ〕全軍爾後〔ジゴ〕の鍵鑰〔ケンヤク〕を確保せるもにして、其の武功は抜群なり。

仍〔ヨ〕って茲〔ココ〕に感状を附与し、隷下〔レイカ〕全軍に布告す。

昭和17年2月15日

南方軍総司令官 伯 爵 寺 内 壽 一

 

 

スマトラでは「白馬の天使」と尊敬され、日本では「空の神兵」と称えられ、仕合わせな兵隊でした。

これも健康な体に生んで育ててくれた両親のお陰と、神仏から賜わったご加護のお陰と深く感謝しております。

長い自慢話を読んで頂き有難うございました。

最後に、あの大戦で犠牲になられた、戦闘員・非戦闘員合わせて210万余名と聞いております。「過ちは2度と繰り返しません」の誓いを肝に銘じ、平和の尊さ、有難さを伝承してゆきます。

何卒〔ナニトゾ〕安養〔アンニョウ〕のお浄土より深厚〔シンコウ〕の御冥護〔ゴミョウゴ〕あらんことを念願します。

合 掌

 

 

 

    
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