西 端 忠 夫

 

 

 入 団

 

昭和12年7月7日、北支で起こった日支事変は収束することなく、ついに昭和16年12月8日、聯合国(連合国)を相手の世界大戦に発展し、多くの若者や国民の生命・財産を奪い、日本を有志以来の敗戦という悲惨な結果に導いた。

また、近隣諸国には聖戦の名のもと蹂躪〔ジュウリン〕し、多くの人々を犠牲にし、未だにその悲しみは消えないようだ。

当時の教育は、日本は神国で、アメリカやイギリスは鬼畜で、日本のすることはすべて正しいかのように教えられていた。

今にして思えば、教育とは恐ろしいものだと思う。

また、五体満足な男子は、兵隊に行かない者は日本国民ではないかの如く教えられていた。

僕も当時の若者と同じく、昭和18年5月1日、海軍に志願し、舞鶴海兵団に入団して3ヶ月半の教育を受けて卒業。

卒業前に砲術学校へ行こうと思い、願書を出そうとしたが、
「一度、実習部隊へ行ってみてからでも遅くはない」
と、教班長が許さず、舞鶴防備隊へ配属された。

他の同年兵は、艦船や外地への警備隊に配属になり、張り切っているのが羨ましく、肩身の狭い思いで衣嚢〔イノウ〕を担いで防備隊へ行った。

8月末に舞防所属の敷設艇「立石」が、北方行動より帰港し、一部乗組員の交替があり、僕はその時、立石に乗艇することができた。

夜上甲板整列があり、
「軍隊は泥棒の養成所だ。洗濯物に気をつけろ。」
と言われ、大変な船に乗ったものだと驚いた。

しばらく港口への機雷敷設をしていたが、9月16日、鳥取地方で大きな地震があり、食糧を積み、鳥取地方より舞鶴へ徴用で来ている方々を載せ、救難作業に従事した。

 

 

 出 撃

 

舞鶴へ帰港後も、港口の機雷敷設をしていたが、23日の作業中、「立石は帰港、ドックに入れ」の無電が入り、作業を中止して、午後、ドック入りした。

前線のソロモン海域の防衛に出撃の命令が下ったとの話が艇内に広がり、兵装の強化・整備に皆力を込めて取り組み、予定より早くドックを出て、舞防に帰り、最後の上陸で英気を養い、出撃を待った。

10月2日、艦長より明日出港するという正式な発表があり、航海中の注意事項を話され、また、下士官からも訓辞があり、身の引き締まる思いがした。

10月3日、舞鶴防備隊全員の登舷礼式に送られ、静かに母港を後に、横須賀へ向かった。

途中、大阪に寄って電ランを積載し、神戸の湊川神社に参拝して、武運長久を祈願の後、目的地の横須賀へ向かった。

横須賀に入り、爾後〔ジゴ〕聯合(連合)艦隊南島方面艦隊司令長官の指揮下に入り、出撃前の東京見物をして、宮城遥拝をし、先輩の眠る靖国神社の参拝を終え、艇に戻って出撃を今か今かと待っていた。

10月20日、思い残すこともなく横須賀港を出港し、父島に寄港、北上丸を護衛してサイパンへ向かった。

途中、早速電撃のお見舞いを受けたが、無事サイパンまで送り、我々も上陸し、初めて木になっているバナナを見た。

現地人に金を渡そうとするが受け取らず、タバコを2個渡すと、バナナ1房と交換してくれた。

それを担いで艇に帰る途中、巡らに咎め〔トガメ〕られ、お目玉を頂戴して帰艇した。

翌日出港し、トラック島へ11月2日入港し、機雷敷設などをしていた。

艦長は、再三、旗艦である大和や武蔵へ打ち合わせに行き、その結果、立石の装備では前線のソロモン海域へ行くのは不可能なので、マーシャル群島東端のクェゼリン島の防備施設の補強を命ぜられた。

11月23日、船団を護衛してクェゼリン島へ向けて出港し、途中、ポナベ島へ商船1隻を送り、先の船団の後を追って、クェゼリン島へ30日に入港した。

翌日は、石炭、飲料水を積み、2日は、久しぶりに水で体を洗ったり、洗濯などをして休養し、3日は、現地調査をし、4日は、多数の艦隊に見守られながら、早朝より1日で5万メートルもの電ランを敷設して、全員くたくたになって帰港した。

前日、ロットの飛行場が爆撃を受けたということで作業を急いだらしく、その晩は見張りにたつ時間以外はぐっすりと休んだ。

 

 

 空 襲

 

翌5日、朝食前の7時頃、艦橋見張りが甲高い声で、「敵機来襲」と叫ぶ。

見ると、7・80機ほどの艦載機が、もう既に艇の真上まで飛来しており、今にも襲いかかろうとしている。

耳に綿を詰めるのも忘れて後部高角砲まで一目散に走り、大砲のカバーを取ったら、照準器のゴムがカバーとともに外れて見当たらない。

そのままでは弾丸を撃つことができず、乙丸兵曹の雷が落ちた。

ゴムを探すため大砲の下へ潜るのと、敵機が突っ込んで来たので待ち切れずに、乙丸兵曹長が引き金を引くのと同時だったため、爆風で鼓膜をやられてしまった。

約1ヶ月程、何一つ聞こえなかったので、軍医長に診てもらったところ、鼓膜に穴が開いているが、若いから自然に良くなるだろうと言われたのだが、今でも不自由している。

前日まで入港していた主力艦隊が、夜中に出港して見当たらず、その隙を狙われたものだと思う。

20隻程いた商船は、ほとんど赤腹を出して転覆していたが、立石には機銃弾1つ当たらず、約40分ほどで7・80機ほどの敵機も退散し、皆で無事を喜んだ。

僕には初めての戦闘だったので無我夢中の内に過ぎていた。

しかし、今でも慌てて耳に綿を詰めなかったことを後悔している。

その日は戦闘の後始末をして、夜、出港したが、湾口を出た所で引き返せとの無電で、艇は再びクェゼリン島へ帰った。

翌朝、司令部から艇長が帰艇すると、ロット島から陸軍の兵を満載してくる山霜丸(1万8千トン)を、トラック島まで護衛して帰るということで、我が艇に陸軍の士官が乗りこんできた。

6日出港、見張りを厳重にして航海する中、翌日早くも敵潜より電撃を受けたが、爆雷投下で応戦し、山霜丸共々無事にトラック島に着いた。

早速、残りの電ランを陸揚げし、いよいよ内地に帰れると喜んでいた。

 

 

 新任務

 

しかし、12月26・7日頃だと思うが、先任士官より、
「インド洋よりジャワ海に進入せんとする敵艦船に対する防備線の重要地点たるスンダ海峡に於いて、水中聴音器群の整備、及び水中磁気探知機群の設置作業を行う。今まで通り頑張って欲しい。」
と言われた。

そこで南西方面艦隊司令長官の指揮下に入り、12月30日、トラック島を後にしてジャワ島へ向かった。

洋上にて越年し、19年1月2日、サイパン入港、パラオに入って、石炭・飲料水・弾薬・日用品を積み、ダバオ・ザンボアンガ・バリックパパンを経てスラバヤに入り、早速ドックで船体の修理をした。

その間、ダバオ沖にて先行していた駆潜艇を電撃で失い、スラバヤまでの航海で幾度、敵潜に遭遇したことか分からない。

敵の物量豊富な反攻や、何処の港の外にも敵の潜水艦が待ち構えていることを痛感した。

ジャワ島にいると平和そのもので、戦争をしていることが嘘のようであった。

ドックでの修理を終えると、弾薬や飲料水、石炭を積み、ジャカルタを基地としてスンダ海峡の作業に取り掛かった。

敷設してある聴音機を引き上げる作業は、大変な作業だった。

1週間ほどスンダ海峡で作業をしては、ジャカルタに帰るという繰り返しだったが、その間にも、船団を護衛して前戦各地へ兵隊を送り、幾度危険水域を航海したことか。

特に心に残るのは、マカッサルよりケリダリーへ航空燃料を積んで出港し、電撃を受けて一瞬のうちに爆発・沈没した太閤丸である。

また、ケンダリーよりアンボンを経て、ビートンでしばらく機雷敷設をしてメナドに入港し、海軍落下傘部隊の現地記念碑を見学した時、現地警備隊が玉砕の準備だと塹壕〔ザンゴウ〕を掘っていたのには心を打たれた。

19年12月、油田基地のタラカンは食糧不足に陥っていたが、危険なため他の船では輸送できないので、立石に輸送命令が下り、スラバヤで食糧を満載にし、明日出港という時、主計兵が一人逃亡して帰艇せず、一日出港を延期して、捜索隊を組んでスラバヤ市内を捜索したが発見できず、捜索を波止場の憲兵隊に依頼して出港した。

バリックパパンを経由してタラカンへの強行輸送を行ったのだが、途中、電撃を受け、入港すれば空襲に遭うという厳しい航海だったが、それでも大任を果たした。

バリックパパンに入港すると、隣に係留していた海防艦が、今よりレイテ湾に突入するのだと、ロープでマードレットを作っていたのには頭が下がった。

 


 

 沈 没

 

20年2月、スンダ海峡の作業も無事完了し、故国の危急を救わんが為、しばし馴染んだジャカルタを後にシンガポールに向けて出港し、シンガポールからはヒ・88丁船団を組み、その旗艦として航海した。

駆潜艇・海防艦を従えて、輸送船8隻・護衛艦9隻の船団で、サイゴン・サンジャックを経由してパレラ岬までやって来た所で、白昼、電撃を受けて油槽船2隻を失い、更に3月21日朝、カムラン湾口にて油槽船1隻・護衛駆潜艇1隻を電撃で沈没された。

ここで態勢を立て直して航海を続けたのだが、午前11時40分頃、突然、数十機の敵機来襲。

3機が1塊となって分散し、低空より主翼前面の機銃群を斉射し、四方より交互に突っ込んで来て、頭上で爆弾投下、機銃掃射を繰り返した。

立石の対空砲火も果敢に応戦し、壮烈な戦いとなり、艇上は敵機撃墜の声や呻き声が入り乱れ、上甲板は血の海と化した。

そうするうちに、艇中央部の釜室に敵の250キロ爆弾が命中し、艦橋は吹き飛び、3回ほどの爆発があって皆甲板上に叩きつけられた。

艦橋におられた士官や兵は皆、海に投げ出され、艦長は海上より退艦命令を出していたが、僕は爆発時に腰を強打していた為に、なかなか立ち上がれず、艇は徐々に左へと傾いていった。

今はこれまでと全身の力を振り絞って、後部爆雷投下機の所から飛び込み、何とか離艦することができた。

海中に浮くと腰の傷みも和らぎ、艇を見ると、軍艦旗をなびかせながら静かに沈んでいく所で、その姿を涙で見送った。

そこから島まで6キロほどあり、懸命に泳いだが、敵機がやって来て機銃掃射を2回ほど受けた。

そのたびに海に潜って逃れ、または現地人のジャンクに上げてもらって何とか島までたどり着くことができた。

定員124名・便乗員12名の合計136名の内、62名の戦友がこのナトラン沖で尊い命を落とされた。

共に苦労の1年有半、当時を思う時、残念でならない。心から御冥福をお祈りいたします。

 

 内地へ

 

9号駆潜艇は、船団中唯一助かったが、艇長以下戦死者が多く、東兵曹長の働きもあって立石の無傷の兵は便乗させてもらい、後から来る89丁船団を護衛して行くこととなった。

その9号駆潜艇もナトラン沖の戦闘で、外舷が敵の機銃の痕跡で蜂の巣のように穴だらけとなっており、その穴を木栓に布切れを巻いたもので塞がなければならなかった。

護衛艦7隻・輸送船6隻にてナトランを出て、海南島の三亜に向かったが、途中、電撃にて沈没し、三亜に着いたのは海防艦1隻と9号駆潜艇のみだった。

入港と同時に空襲を受け、すぐに錨を上げて、単独で香港に向けて出港した。

接岸航行で、夜間に航海しては、日中は島影に隠れての航海で、何とか香港にたどり着いた。

香港で次の船団を待ち、駆逐艦天津風を旗艦とした護衛艦5隻・輸送船4隻で、アモイに向かって香港を出港した。

しかし、アモイ沖でB25爆撃機とグラマン戦闘機に遭遇し、対空砲火で果敢に戦ったが、霧の中より爆弾投下・機銃掃射され、我が方の船団は次々と沈没した。

天津風は陸上めがけて突っ込み、9号駆潜艇は補機室に被弾し、大きな穴が開いて舵がきかず、人力操舵で香港へ引き返した。

香港で、約1ヶ月かけて修理し、単独で航海して、アモイを経て上海に入った。

上海を出て、青島・黄海を横断し、朝鮮の大東湾に入ったが、霧が深く、釜山へ向けての航海は霧中航行となり、艦尾でズット鐘を鳴らしながらの航海は大変疲れた。

南下中の空母が網を被り、飛行甲板に木を植え、偽装しているのを見た時は驚いた。

釜山では、陸軍の特殊潜航艇を見掛けた。

釜山を出て門司に向け出港、門司に入港し、ようやく内地に帰ることができたとホッとするのも束の間、その夜の空襲で関門海峡に機雷投下で、安心できる場所がないのかと嘆いた。

戦争とはなんと悲惨なものかとツクヅク思い知らされた。

6月24日、9号駆潜艇の母港である呉に入り、我々の9号駆潜艇での任務を終了し、舞鶴防備隊に帰ることができた。まるで夢のようであった。

一緒に苦楽を共にし、母港を夢見ながら南海に散った多くの御霊に対し、安らかに眠られるようお祈りし、僕の立石の思い出を終わります。

 

 

 追 記

 

23年間もベトナム沖の海底深く眠り続けていた「特設電ラン敷設艇“立石”」は、ご遺族の方々の強いご希望と、高津艇長の奔走によってによって、昭和43年に引き上げられ、乗組員56名の遺骨・遺品の内、先ず30数名分が、日本郵船「たるしま丸」にて川崎港東洋埠頭に帰り、7府県の遺族に引き渡され、懐かしい故郷へ帰られました。




立石を悼む

          作詞 西端 忠夫 

1.空に輝く十字星を   
  背にして急ぐ帰りの潮路
  最後の難関カムラン湾に
  華と散りたる立石よ  

2.日差し厳しき真昼の空に
  襲い来たりし敵機は数多
  今日を最後と戦いせしが
  力尽きて南海に果てぬ 

3.故国を出でて1年有半 
  務め果たして母港を夢み
  艦と運命を一にし戦友よ
  恨みぞ深しナトランの 

 




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