行政訴訟の現状とこれからの課題

一、絶望的状況にある行政訴訟

1 行政事件訴訟法制定の経過

戦前の行政訴訟は、ドイツ法を模倣して、行政事件は行政裁判所が管轄することとされ、さらに抗告訴訟中心主義・制限的列挙主義・訴願前置主義という制約があった。それに対し、日本国憲法は、行政に対する司法統制を強化するために、行政裁判所を廃止して、司法裁判所に行政訴訟をも担わせることにした。

1947年 憲法の予定する行政訴訟手続は具体化されないまま、まずは民事訴訟法応急措置法によって、取消訴訟の出訴期間を限定する規定のみが整備された。このようにして憲法下の行政訴訟は「民事訴訟としての行政訴訟」としてスタートした。

 1948年2月 公職追放に対して東京地方裁判所が執行停止の仮処分決定をしたのに驚いたGHQがこの決定を取り消させるという平野事件が発生した。これを契機に、GHQの方針が変更され(ニューディーラーとしての司法消極主義)、行政事件の特殊性が強く意識されるようになった。その後制定された行政事件訴訟特例法(同年六月)は、@抗告訴訟中心主義、A訴願前置主義、B行政処分の執行停止の制限という特色を有し、これが戦後行政訴訟の骨格となった。

 1962年 現行の行政事件訴訟法が制定される。本来、行政事件訴訟法は、憲法の予定する行政訴訟手続の具体化を期待されていたはずであった。ところが、できあがってきたものは、特例法の不備・欠陥を是正し、その運用を追認するものにすぎなかった。改正作業の中心にあった雄川一郎教授が「技術的には行政裁判所時代の行政訴訟法理を受け継いだ面が多い」と語るほどのものであり、ここに英米型の司法裁判所の下にドイツ型の行政裁判所法理が復活するという日本独自の混合型行政訴訟手続が確立した。しかも、この混合型行政訴訟手続は、民事訴訟と行政訴訟を峻別しつつ、その選択の責任や行政の違法性の主張立証責任を主として当事者である原告に押しつけ、そこにさらに日本独自の「三権分立や行政庁の第一次的判断権尊重のドグマ」が強調されるという、およそ憲法の理念に反する行政訴訟手続であった。

2 行政訴訟の実態

(一) 訴訟の土俵にも乗せてもらえない行政訴訟

今日、行政活動においては、公権力行使以外の行政計画や行政指導、給付行政、公共事業、行政契約という非権力的手法が多用されており、このような行政活動によって市民の権利利益が侵害されることが多くなってきている。それにもかかわらず、現行行政事件訴訟法の枠組みが公権力中心主義の事後救済方式に傾斜しているため、市民の権利利益の救済は十分になされていない。

そればかりか、行政訴訟を担う裁判官は、行政法の知識不足から最高裁判例に過度に寄りかかり、形式的な三権分立論から行政への過度の自己抑制を行っている。

その結果、都市住民の生活環境に多大な影響を及ぼす都市計画決定の取消を求めても処分性がないとして訴えを却下され、風俗営業の許可の取消を周辺住民が求めても原告適格がないとして訴えを却下され、生活保護の申請を却下された者が生活保護の給付申請または給付の義務づけを求めても行政庁の第一次的判断権を侵害するとして訴えを却下され、空港周辺住民が民事訴訟によって空港供用差止を求めても航空行政権の発動を求めるものとして訴えを却下される。

行政訴訟(第1審)の訴え却下率は平成6年で20.2%、平成10年でも15.9%に上る。しかも、平成10年にしても、工業所有権関係事件を除くと、却下率は20.2%であって、平成6年とは変わらない。それに対し、訴え認容率が平成6年で6.6%、平成10年で12.0%であるのと比較すると、却下率が極めて高いことが分かるだろう(表1、2)(注i)。ちなみに、これを審理期間別に見ると、6ヶ月以内に言い渡される判決で訴えが認容される割合は1%未満しかなく、2年近く審理が行われてようやく訴え認容率が15%となり、3年以上審理がなされて初めて訴え認容率が20%を越すことが分かる(表3)。

このような結果を受けてか、地方裁判所における行政事件第1審訴訟の新受件数も、平成10年でも1,322件しかなく、民事訴訟の新受件数約40万件と比較すると、極めて少ない(表1)。

(二)下級審ほど原告の救済に薄い行政訴訟

以前は上級審ほど市民の権利利益の救済に薄いと批判されたが、現在は、逆に下級審ほど権利救済に薄い。

たとえば、がけ崩れが多い土地につきなされた開発許可を周辺住民ががけ崩れにより生命、身体に被害を受けるという理由で取消を求めた事案がある。ところが、一・二審は、周辺住民の原告適格につき何らの検討もすることなく、原告適格がないとして訴えを却下した。しかし、最高裁は周辺住民の原告適格を肯定して、一審に差し戻した(最高裁第三小法廷平成九年一月二八日判決民集五一巻一号二五〇頁)。この開発許可は平成四年二月になされたが、その取消訴訟の実質的審理がようやく五年を経過してから始まろうとしている。その間に、開発工事が完了して検査済証が交付されてしまえば訴えの利益がないとして却下されてしまったろう(最高裁第二小法廷平成五年九月一〇日民集四七巻七号四九五五頁)。本件では、幸か不幸か開発業者が倒産して工事が完了しなかったため訴えの利益が否定されることはなかったが、これでは何のための訴訟か全く意味がない。

同じような例は枚挙にいとまがない。土地改良施行事業の認可が違法であるとしてその施行地域内に農地を有する者がその取消を求める訴訟を提起したところ、一・二審は土地改良施行事業認可は取消訴訟の対象となる処分にあたらないとして訴えを却下した。しかし、最高裁は処分性を肯定して一審に差し戻した(最高裁第一小法廷判決昭和六一年二月一三日民集四〇巻一号一頁)。ところが、差戻審で二年にわたり実体審理をしているうちに工事及び換地処分が完了したため、一・二審は、訴えの利益がないとして再び訴えを却下した。しかし、最高裁は、工事が完了して原状回復が社会通念上不可能となった場合であっても、事業施行認可の取消を求める訴えの利益は消滅しないとして、またも一審に差し戻した(最高裁第二小法廷判決平成四年一月二四日民集四六巻一号五四頁)。こうなってくると、行政訴訟の下級審は、市民の権利救済を阻害するだけの存在ではないかと言いたくなってくる(注ii)。

そもそも憲法は、行政訴訟の訴訟要件としては争訟性の要件しか要求していないはずである。処分性の要件としては紛争の具体性と成熟性があれば足りるし、原告適格の要件としては事実上の損害の要件があれば足りるというべきである。ところが、現在の行政事件訴訟法と裁判所によるその法解釈は、厳格な原告適格や訴えの利益や処分性の要件を満たさない限り、市民は違法な行政活動について裁判すら受けられないという結果を招いている。憲法上の裁判を受ける権利が行政事件訴訟法という下位実定訴訟法規によって侵害されているのである。行政事件訴訟法の現在の運用は憲法違反というべきである(注iii)。

(三)地獄のような立証の壁、行政による証拠隠し、行政裁量の壁

問題は、訴訟要件だけではない。訴訟要件は、あくまで訴訟の土俵・間口の問題にしかすぎない。仮に訴訟要件を満たしているとして訴訟の土俵に乗ったところで、今度は、「地獄のような立証の壁、行政による証拠隠し、行政裁量の壁」が原告・市民の側に立ちはだかっている。たとえば、自治体職員のカラ出張による旅費相当分の損害賠償代位請求住民訴訟を考えてみても、裏出納簿のような文書の存在を突き止め、その提出をさせたり(福岡県では、市民オンブズマン福岡が情報公開訴訟の中で、県庁の雑賦金の使途を記した裏帳簿や預貯金通帳の開示を得ている 注iv)、当該出張者が別の場所で開催された会議にも出張していたこと等を立証しない限り、カラ出張の立証はできない。

さらに、立証が成功しても、行政裁量処分における違法判断基準が明確になっていないから、結局、裁量の逸脱濫用はないとして棄却されてしまうことが多々ある。行政裁量を「逸脱濫用」という名のブラックボックスに入れておく限り、行政に対する司法審査は充実しない。

(四)行政裁量の壁をどう打破するか

少し古いが、足立区医師会事件という事案があった。これは足立区医師会の内部対立から同医師会を脱退した医師らが新医師会設立のための社団法人設立許可申請をしたところ、東京都知事が「地区医師会の存在する地域において、会員が混在する状態のままで同一目的の新法人を設立しようとするものであり、医師会相互の協調ならびに関係機関との間の調整が不十分な状況のもとでは、地域医療に混乱と障害を生ずるおそれがあるので、認めがたい」との理由を付してした不許可処分に対する取消訴訟である。

 一審は原告の請求棄却、二審は請求認容(東京高裁判決昭和五九年五月三〇日判例時報一一二六号二八頁)、最高裁で破棄自判され(最高裁第一小法廷判決昭和六三年七月一四日判例時報一二九七号二九頁)、結局、請求は棄却された。

 二審と最高裁の判断の分かれ目は、どちらも同じく裁量処分の違法判断の審査基準を「裁量の逸脱濫用」にあるとしながら、二審は、「右許可に関する主務官庁の判断が、全く事実上の根拠に基づかない場合や、考慮すべき事項を考慮せず又は考慮すべきでない事項を考慮した場合、その他合理的根拠なくして恣意的に同種同質の他の案件と異なった取扱いをするなど、社会通念に照らして著しく妥当性を欠くと認められる場合には、裁量権の行使を誤ったものとして違法とされることを免れない」として、原処分庁の判断が事実上の根拠に基づくものかどうかを厳格に(要するに客観的第三者の立場に立って踏み込んで)審査したのに対し、最高裁は、「裁判所が公益法人設立の不許可処分の適否を審査するに当たり、当該不許可処分において主務官庁が一定の事実を基礎として不許可を相当とするとの結論に至った判断過程に、その立場における判断のあり方として一応の合理性があることを否定できないのであれば、他に特段の事情がない限り、右不許可処分には裁量権の範囲を超え又はそれを濫用した違法はないものとしなければならない。」として、極めて緩やかな(要するに主観的な原処分庁の立場に立った)審査で足りるとしたことに起因する。しかしながら、最高裁のこの審査基準は司法審査の放棄を意味する。裁判所がその立場を放棄して、原処分庁の立場に立った判断をする限り、行政訴訟の充実はあり得ない。

行政訴訟の充実は、最後は、この行政裁量に対する司法審査のあり方をどうするのかにかかっている。

 現代国家の下における行政の複雑化・専門化・技術化・政策化等の進展が委任命令の増大と行政裁量の拡大をもたらしてきたことに照らせば、裁判所が行政庁の判断を完全に代置することは困難ないし許されないであろう。本件においても、「地域医療に混乱と障害を生ずるおそれ」の判断は、将来の予測・評価にかかわるものであり、裁判所がよくなしうるか疑問のあるところもあろう(注v)。

 しかしながら、このような将来の予測・評価というのは、行政訴訟固有の問題ではなく、通常民事刑事訴訟であっても、規範的構成要件事実の認定においては常に要求されているところであるから、裁判所が判断できないというものではない。それに、裁判所が裁量処分について判断を完全に代置することができないとしても、行政の裁量処分過程の合理性を審査することは可能である。

 裁量処分においても、@処分の基礎となる事実があり(この過程には@a「生の事実=ex既存医師会と新医師会との反目」と、そこから@b「評価的・予測的事実=ex既存医師会との間で互いに激しい会員の争奪が行われるために地域住民に対する医療業務に停滞を生ずるおそれ」を認定する過程がある)、A要件・効果裁量の基準(ex地域医療に混乱と障害を生ずるおそれ)があり、B事実から基準へのあてはめの過程があり、さらにはCその過程において要求される行政手続がある。したがって、裁判所は、行政庁が現実に行ったそれぞれの判断過程が客観的第三者の立場から見て合理的であるのかどうか、目的違反、他事考慮、必要な調査・代替案の検討の懈怠等の視点も加味して審査する(本件の場合であれば、行政庁がどのような資料に基づきどのような事実を認定したのか、行政庁がどのような根拠・基準に基づき予測的・評価的事実を認定したのか、行政庁が認定したような事実が訴訟上の証拠調べの結果認定できるのか、行政庁の事実認定の過程は合理的であるのか、もしA、B、Cという三通りの予測ができると認定されるにもかかわらず行政庁がAという予測を採用したとすれば、行政庁が他のB、Cという予測を採用しなかったことに合理性があるのか、行政庁が採用した具体的許可基準が合理的であるのか、事実から基準への当てはめは合理的であるのか、を審査する)ことができる。それが行政裁量に対する司法審査と考えるべきである(注vi)。

いずれにしても、裁判官自身が裁量処分の審理のあり方について明確な視点・基準を持っていない(注vii)ために、行政庁が「行政裁量」であると言ったとたんに司法審査が止まってしまってしまっているのが現実である。裁量処分の審理のあり方について明確な基準を打ち出すことが行政訴訟の充実を図る上で不可欠である。

3 行政事件訴訟法の改正を

 かつて、平野龍一教授は、刑事裁判は「かなり絶望的である」と述べられた(注viii)が、今日、行政訴訟も同様に、絶望的な状況にある。

 行政訴訟を絶望的状況から救済し、憲法の予定した行政訴訟を実現するためには、行政事件訴訟法の改正が不可欠である。確かに行政訴訟の絶望的状況にしているのは、訴訟法だけの問題ではなく、むしろ行政法に通じた弁護士が極めて限られていること(注ix)や、さらには裁判官の法解釈の質に関わるところが大きい。しかしながら、行政事件訴訟法の改正は、裁判官をして訴訟要件に関する憲法違反の法解釈の桎梏から解き放つことであろう。

二、行政訴訟改革に向けた取り組み

 行政訴訟問題に関しては、公法学会の動きがまず先行した。

 一九八九年一〇月に開催された公法学会では、「現代型争訟―争訟制度の改革に向けて」をテーマに報告と討論が行われている。そこでは、阿部泰隆教授「行政訴訟の基本的欠陥と改革の視点」、濱秀和「実務を通じてみた行政訴訟制度の問題点」、兼子仁「行政事件訴訟法の改正立法論」等、行政事件訴訟法の改正の方向性を示す、大変示唆に富む報告がなされている(注x)。

 その後を追って、日弁連が行政訴訟の改革に動き始める。日弁連における本格的な改革の動きは、一九九四年九月に開催された日弁連第一五回司法シンポジウムにおいて、「市民と行政裁判の改革・改善」が取り上げられたことに始まる(注xi)。その準備の過程で、学者・弁護士・各界に対する行政争訟に関する意見照会が実施され、また、『自由と正義』一九九四年六月号には「市民の立場に立った行政争訟法の改革」が特集され、同号に山村恒年『行政争訟法改正試案』が発表された。

 その後、一九九五年には、東京弁護士会法制委員会が司法シンポジウムの基調報告の視点に立って、山村試案をベースに、「行政事件訴訟法改正要綱試案」をまとめた(注xii)。

 そして、一九九八年九月六日、日弁連において、日弁連司法改革センター第三部会主催の「シンポジウム市民のための行政訴訟をめざしてー行政事件訴訟法改正問題を考える」が開催された。パネリストには、塩野宏成蹊大学教授、飯室勝彦東京新聞論説委員、辻公雄弁護士を迎え、当日のシンポジウム参加者は、学者・弁護士・自治体職員合計八二名に上った。その場で第三部会「行政事件訴訟法改正要綱第一次案」が発表され、現在の行政訴訟の問題点及び行政事件訴訟法の改正の方向について活発な議論を交わしたが、現行行政事件訴訟法を改正することについて出席者の意見は一致していた。

 その後、日弁連内の行政事件訴訟法改正の運動を担うことを目的として、一九九九年一月、司法改革推進センター第三部会の中に、行政事件訴訟法等改正推進協議会が設置された。

 そして、一九九九年五月二九日には、行政事件訴訟法改正等推進協議会主催で、園部逸夫前最高裁判事と小早川光郎東京大学教授をパネリストに招いて「行政事件訴訟法の改正を考えるシンポジウム」が開催された。その中で、園部前最高裁判事は、「日本の行政法は二度死んだ。一度目は戦後司法改革で行政裁判所が廃止されたときであり、二度目は今で、行政訴訟が滅びつつある。行政訴訟の衰退の原因の一つは、裁判官にとって行政事件が片手間の仕事になっていることであり、制度として裁判所のシステムが行政事件を取り扱うようなものになっていない。行政裁判所の設置も検討が必要ではないか。また、行政訴訟の改善は裁判所だけでは無理であって、行政委員会やトライビューナルのような裁判外紛争処理機関の充実も必要である」と発言された。

三、行政事件訴訟法等の改正をめざして

 日弁連は、わが国の司法は二割司法であるから、その容量を増大すべきであるとかねてから主張している。「(わが国の司法は)憲法訴訟・行政訴訟・国家賠償請求訴訟など、国・自治体相手の現代型訴訟において、立法部・行政部に抗した独自の法形成には過度に消極主義な姿勢をとってきており、少数者や弱者の権利利益の救済よりも公共性・公益性、しかも、それについての立法部・行政部の裁量的判断を、その内容や手続過程を十分に審査することなく切り札的に優先する傾向が強く、期待された役割を適正に果たしているとは言いがたい。」「裁判所が、政治・行政との対立に巻き込まれることを恐れるあまり、過度に自己抑制的な姿勢をとり続けるならば、適正範囲を超えた積極的な政策形成の場合と同様に、否、それ以上に司法機関としての信頼を損ない、地位低下を招き、社会一般だけではなく、結局は、立法部や行政部からも、その判決に相応の尊重と配慮を払われなくなってゆくことになりかねない。」(注xiii)

 そこで、一九九八年一一月二〇日、日弁連は、司法改革運動を進める中で、日本国憲法の下における市民に身近で信頼される司法を実現することを目的として『司法改革推進ビジョン』(注xiv)を作成し、その中で「行政に対する司法審査を充実強化し、だれでも、どこでも、費用の心配なく、不服申立や裁判を通じて行政の活動をチェックし、権利の保障を受けられるように行政不服審査法、行政事件訴訟法を改正する必要があります。」と結論づけている。

 他方、政府も、一九九九年六月二日、国会の議決を経て「二一世紀の我が国社会において司法が果たすべき役割を明らかにし、国民がより利用しやすい司法制度の実現、国民の司法制度への関与、法曹の在り方とその機能の充実強化その他の司法制度の改革と基盤の整備に関し必要な基本的施策について調査審議する」ために、内閣に「司法制度改革審議会」を設置した。そして、司法制度改革審議会が1999年12月21日に発表した「論点整理」では、「行政・立法に対する司法のチェック機能を充実させる方策について検討することが必要である。」と指摘され、論点項目の一つとして「司法の行政に対するチェック機能の充実」が盛り込まれた。

 この司法制度改革審議会の設置は、一九九八年六月、自由民主党が「司法制度特別調査会報告―二一世紀の司法の確かな指針―」を発表したことを受けたものである。同報告は、「司法は、安全な国民生活の確保と公正で円滑な経済活動という国家の基礎を支え、活力ある社会を維持するための基盤をなすものであり、今後より一層進展していく社会の複雑・多様化、高度化、情報化、国際化に的確に対応し、公正で適切な解決を与えることによって、わが国が国際社会での信頼を得ながら着実に発展を遂げていくための国家的な基本的インフラである。」「今後、規制緩和等の諸改革を推進し、自己責任の原則に貫かれた事後監視・救済型の社会への転換を図るためには、その基盤をなす司法の機能の充実強化が必要である。」との認識に立って、「国民に身近で、利用しやすく分かりやすい司法」の実現を唱え、「行政に対する司法審査手続の在り方についても今後の検討課題である」とくくっている(注xv)。

 政府のなかにおいてこのような司法改革の動きが出てきているのは、右自民党報告の中に見られるように、規制緩和の動きを背景としている。

 規制緩和の是非については、議論のあるところであるが、規制緩和の動きの中で、行政手続法と情報公開法が制定されてきた経緯があるのは周知の事実である。一九八三年の第二次臨調の答申の中で統一的な行政手続法の制定と情報公開の制度化がうたわれた。規制緩和は、行政による事前規制ではなく自己責任原則を基本とするから、その前提として情報の公開と公正・透明な行政手続が必要とされる。ただし、何人に対しても利害関係のあるなしにかかわらず行政情報に対する開示請求権を認める情報公開制度よりも、個別の利害関係人に対して関係情報の開示請求を認める行政手続法が先ではないかという議論もあって、先に行政手続法が制定され、今時、情報公開法が成立するという流れになっている。そして、またこの規制緩和の動きは、情報公開と行政手続の保障のみならず、事後救済手段である行政訴訟の充実強化と一体となって、はじめて完成するものである。

日弁連内部においては、司法制度改革審議会の設置の是非については様々の意見があるが、このような司法改革の流れを見据えるならば、「司法制度改革審議会」において、司法の行政審査機能の強化の観点から、行政訴訟の現状と改革の施策につき必要な調査審議を行い、内閣に対して行政事件訴訟法の改正の意見を述べさせることが極めて重要であると考えられる。

 今後、広く会内外の声を集めて、大きな世論を巻き起こし、早期に行政事件訴訟法を改正したい。行政事件訴訟法を憲法の理念にふさわしいものに改正し、行政に係る裁判を受ける権利を名実ともに保障することによって、はじめてわが国における法の支配が貫徹するのである。会員各位、そして市民の皆さんの大いなる協力を期待するものである(注xvi)。


i 最高裁判所事務総局行政局『平成10年度行政事件の概況』(法曹時報51巻9号71頁以下)

ii 本稿は、行政事件訴訟法に関連する訴訟要件の問題を主として論じるものであるから、本文ではふれないが、訴訟要件に関する下級審裁判官の市民軽視の法感覚の例をもう一つだけ指摘しておきたい。住民訴訟の出訴期間に関するものである。住民が監査請求を行ったところ、監査委員は、これを不適法であるとして却下した。そのため、住民が再度監査請求を行ったところ、監査委員は、同一対象に対する監査請求であるからとして再度却下した。そこで、二度目の監査請求却下に対して住民訴訟を提起した。ところが、一・二審は、一回目の監査請求が適法であったから、二度目の監査請求は不適法であり、住民訴訟を提起するのであれば、一回目の監査請求に係る住民訴訟を所定の出訴期間内に提起すべきであって、二回目の監査請求が却下された後に提出した住民訴訟は出訴期間を徒過してなされたものであるから、不適法であるとして却下した。しかし、住民とすれば、適法な監査請求を監査委員が誤って却下したのであるから、再度の監査請求をするのは当然ではないか。そもそも監査委員が不適法と判断したのであるから、住民がその判断に従って必要な補正を試みて再度監査請求に及ぶのも当然である。それを後になって裁判所が適法であると判断して、その裁判所の判断に従っていないからという理由で不適法却下するのは、住民に不可能を強いるものである。幸い、最高裁では、これを適法であるとした(最高裁第三小法廷平成一〇年一二月一八日判決判例時報一六六三号八七頁)。しかし、これほど常識的な判断を得るのに最高裁までいかなければならないということ自体が信じがたい。一般に、住民訴訟が民衆訴訟であることを理由に住民訴訟の訴訟要件を必要以上に厳格に解釈して、住民の出訴の機会を封じ込めようとする下級審裁判官の法感覚が横行しているが、これは全く首肯できない。民主政の過程や行政による利益調整の過程で解決されるべき問題が必要以上に訴訟に持ち込まれている現実があるとしても、行政事件訴訟法の訴訟要件が厳格であるために、行政訴訟が住民訴訟にシフトしている実態を見据えた柔軟な法解釈こそが望まれているのである。

iii 松井茂紀『裁判を受ける権利』(日本評論社、一九九三年、一七四頁以下)は、「行政事件訴訟法の定める手続は、裁判を受ける権利の保障という観点からはきわめて疑問が多いと言わざるをえないように思われる。」と述べる。同様に、棟居快行『行政紛争への司法の関与』(「岩波講座現代の法5現代社会と司法システム」岩波書店、一九九七年、二四一頁以下)も、「事件・争訟性概念の実定法レベルへの不当な格下げは、司法審査制の発動要件を実定訴訟法の規定に係らしめてしまうことによって、法律の合憲性を審査するという司法審査制度の基本を揺るがすものである」と述べている。

iv 一九九九年三月一九日付日本経済新聞朝刊

v 岩渕正紀最高裁調査官は、最高裁判決の評釈の中で「本件のような状況において足立区内に二つの医師会が併存するとなると、少なくとも当面は地域医療に何らかの混乱が生ずることも考えられなくはないので、本判決が控訴審判決を破棄したのは、やむをえなかったものといえよう。」と述べている(ジュリスト九二八号八二頁)。これなどは、裁判所としても、何らかの混乱が生ずることが皆無とは言えないとすれば、主務官庁が「地域医療に混乱と障害を生ずるおそれ」があると判断したことをあながち否定できないという判断の現れであろう。

vi 山村恒年『行政過程と行政訴訟』(信山社、一九九五年、四一頁以下)は、行政裁量も目的達成のための合理的意思決定過程であるから、その合理性を裁判所が審理すべきであるとし、その審理モデルを詳細に検討されている。

vii 高木光教授は、足立区医師会事件最高裁判決の判例批評の中で、「本件で、設立不許可処分が裁量処分であり、従って裁判所がいわゆる『判断代置方式』の審査をとることは許されず、裁量権の逸脱・濫用のみを統制しうる、という点では各審級の裁判所は一致している。しかしながら、具体的な判示を見る限りでは、第一審と第二審はやや踏み込んで行政決定を見直すという姿勢をとっているように思われ、これはあるいは各裁判所が、裁量一般論ではほぼ同様の枠組みを用いつつも、本件の許可処分と類似した処分として念頭に置いている処分が異なることによるのではないかとも思われる。」と指摘している(判例評論三六六号三一頁・判例時報一三一二号一九三頁)。このように行政裁量の司法審査のあり方は、裁判所によって総論一致各論不一致の状況にあるのが実際である。

viii 「団藤重光博士古希記念論文集第四巻」、一九八八年、四二三頁

ix この点は、次に述べる日弁連シンポジウム(一九九八年九月)においても、塩野宏教授が「行政訴訟に関するリーガル・アドバイザーを考える必要があるのではないか。行政法の教育、司法試験のあり方など、行政訴訟の環境整備にも考慮する必要があるのではないか」と指摘されたところである。確かに地方都市で開業していると、日常的に開発許可や土地改良・土地区画整理その他行政関連の法律相談に接する機会が多いが、それでも行政関係は得意ではないと言われる弁護士が多いのが実情である。そして、日弁連において行政訴訟問題を扱おうとしても、弁護士が集まらないのが実際である。日弁連としても、行政法に精通した弁護士を育成することにもっと力を注ぐべきであろう。

x 「公法研究」五二号(有斐閣、一九九〇年)その後、阿部泰隆教授は、行政訴訟の現状を改革することを念頭において「行政訴訟改革論」(有斐閣、一九九三年)を著され、また山村恒年教授は「行政過程と行政訴訟」(信山社、一九九五年)を著しておられる。

xi 日弁連第一五回司法シンポジウム運営委員会「第一五回司法シンポジウム市民と司法改革基調報告V市民と行政裁判の改革・改善」

xii 塩野宏『行政事件訴訟法改正論議管見』(成蹊法学四三号四五頁、一九九六年)は、東京弁護士会法制委員会「行政事件訴訟法改正要綱試案」を適宜紹介しつつ、行政事件訴訟法改正問題を論じている。

xiii 田中成明『現代司法の位置と課題』(前掲「岩波講座現代の法5現代社会と司法システム」二二、二三頁)

xiv 「自由と正義」一九九九年一月号一七三頁

xv この文言には、やや歯切れの悪さを感じるものの、「司法制度特別調査会報告」のとりまとめの中心を担った保岡興治衆議院議員によれば、司法の行政に対するチェックの必要性はトーンダウンしていないとのことである(自由と正義一九九九年一月号六五頁)。

xvi 本稿は、拙稿『行政訴訟の現状とこれからの課題』(「自由と正義」一九九九年五月号三六頁)に、若干の補筆訂正を加えたものである。