刑事事件


 最近は、ほとんど刑事事件を受けなくなった。国選事件も、当番弁護士の関係で登録はしているものの、実際に受任することはない(大きな顔をして言えることではないが)。

 というのも、オウム事件の後、刑事事件がとても厳罰主義に変わったように感じるからだ。

 弁護士をしていて辛いのは、どうして犯罪者の弁護をするのかと言われることだ。あんなのはすぐに死刑にすべきなのに、どうして長々と弁護するのかとか。

 でも、本当に彼が犯人で、本当に起訴状にあるような犯罪を犯したのか。それが被告人も自白していて、記録上も明らかであれば、言われるとおりなのだが、被告人が否認していて、記録にも信用しがたいところがあれば、証人尋問をして真偽を明らかにするのが被告人の権利だし、弁護人の務めだ。仮に彼が犯罪を犯したことが明らかでも、長期の懲役刑や死刑判決が言い渡されるような事案では、どうして彼がそのような犯罪を犯すに至ったのか、等を明らかにして彼にどのような刑を科すかを審理しなければならない。遠山の金さんや大岡越前の守や水戸黄門のように、俺がすべてを見ているのだから、俺の一存で有罪無罪と刑を決めるというのは、近代国家とは言えない。

 ところが、一般の人は、自分の目で事件を目撃したり、記録をすべて直接見たわけでもないのに、新聞報道やTVニュースだけを見て、それを疑うこともせずに、やれ有罪だの、やれ死刑だのと言う。一体、マスコミ報道がどれだけ真実を伝えているのか一般の人は自ら吟味して言っているのだろうか。


 宅間事件の死刑判決が大阪地裁で言い渡された。

 判決公判の冒頭で被告人が最後の発言の機会を求めたが、裁判長はそれを認めなかった。確かに既に審理は終わっており、被告人の最終意見陳述の機会も与えられていたのだから、訴訟法上、被告人に判決公判で意見陳述の機会を与える必要はない。しかし、公判前に事前に弁護人も被告人の意見陳述の機会を与えるように申し入れていた。正式に意見陳述の機会を与えれば、判決公判中の不規則発言もしないだろうという判断だったようだった。被告人も、手紙に自分の意見を書いてきていた。当然のことながら、死刑判決が予想されていたのだから、言いたいことは述べさせるのが裁判所としてあるべき訴訟指揮だったろうと思う。もしその内容が不適切なものであれば、その時点で制止すれば足りた(私としては、たとえ不適切なものであったとしても、国家が人の生命を奪う以上は、すべて言わせるというのが筋だろうと思う。ここで、イギリスの議会での議員発言を例に取るのは適切ではないかもしれないが、一晩でも二晩でも議員発言は制止しないのと同じだけの度量が民主主義国家では必要ではないのだろうか)。


 ここには、判決を受ける被告人への配慮が全く感じられない(宅間事件で、被告人への配慮と言うのはちょっと憚れるが)。被告人への配慮というのは、被告人が納得して刑に服すことへの配慮という意味だ。

 先日も、業務上過失致死事件(トラックで後進中におばあちゃんを轢いて死なせてしまった事件)で、被告人は事故と死亡との因果関係を争っていた(轢いたことは認めるが、出血もしてしなかったし、後ろを注意してみていたが全く姿も見えなかったから、自分が轢いたときには、既におばあちゃんは倒れていて死亡していたのではないか)。裁判官の常識やこれまでの経験からすると、被告人の弁解はきわめて不自然に思えたのだろう。しかし、被告人が争っていて、死因の鑑定の申し出がなされている以上、裁判所としては、被告人の弁解が不合理であることを科学的に説明するか、それができないのであれば、被害者の死因について鑑定をすべきであった(この事件では、捜査段階で司法解剖も死因の鑑定も行われておらず、整形外科医の診断が行われていただけで、被告人が捜査段階から鑑定を求めていたのに、検察官は簡易鑑定もせずに起訴した)。ところが、裁判所は、被害者が轢かれる直前に被害者が横断歩行しているのを目撃した証人が複数いることから事故と死亡との因果関係は明らかであるとして、被害者の死因や被害者の死体の損傷状況に関する科学的説明は一切省略し、加害車両の後進速度と被害者の歩行速度との対比から事故状況を検証するという作業も怠った。

 確かにこの事件でも、心証形成は裁判官の自由裁量であり、鑑定をしなくても有罪を言い渡せると判断すれば、訴訟法上は審理不尽と言われることもない。しかし、被告人は、鑑定をして、自分の弁解が不合理なものであるならば不合理であると科学的に判断してほしいと求めていたのであるから、被告人の納得(納得して刑に服すること)を考えれば、鑑定をすべきだった。

 同じことは、どの刑事裁判でも行われている。被告人や弁護人の申し立てる証拠調べを行ったところで、公判が1回増え、期間が2、3ヶ月かかる程度のことなのに、裁判所がその手間を惜しんで、被告人や弁護人の申請する証拠調べを行わない。

 裁判所が、被害者の方を向いて裁判をするのは正しいことだ。しかし、被告人の納得を無視したところに、矯正も更生も秩序の維持もないのではないか。結局は、裁判所に対する不信を招き、控訴を誘発し、かえって判決の確定を遅らせてしまい、社会的費用を無駄にするだけなのに。裁判所が心の余裕を失っているとしか思えない。


 宅間事件では、亡くなった8人の子供たちのことを思うと、哀悼の意に耐えない。

 しかし、「始まったばかりの人生を理不尽極まりない暴力によって奪われてしまう」ことは、何も宅間事件だけではない。同じ夕刊紙上に、医療ミスで亡くなった患者さんの記事が載っていた。被害者からすれば、どちらも許せないことだ。怒り、憎しみは同じだ。

 しかし、何時までも怒り、憎しみにとらわれているだけで良いのだろうか。自分の子供が同じような被害に遭えばこんなことは言えないだろうということは承知の上であえて言うとすると、それでは亡くなった子供は往生できない。

 「何の罪もない子供を無惨に殺した人間が、世の中に存在し続けているという矛盾。親にとって、許すことのできない最大の怒りであり、耐え難い苦しみです。唯一、犯人がこの世から消え去ってくれること以外、逃れる道はない。そう痛感してきた者だからこそ、死刑判決には、感慨深い思いがこみ上げてきました。」京都市日野小事件のお父さんのコメントが載っていた。痛いほどよく分かる。でも。でも、私たちはいつも同じことを繰り返してきたのではないのだろうか。クリスチャンではないが、2000年前、何の罪もないイエス・キリストを大勢の人は十字架にかけて死に追いやった。イラク戦争でも、アメリカ軍は、何の罪もない人をも戦禍に巻き込んだ。憎しみが憎しみを生んで、アメリカ世界貿易センタービルの9月11日が起きた。自分を殺した人たちを恨まなかったのは、1人イエス・キリストだけだったのかもしれないが、私たちは何時までも怒り、憎しみの中にいるべきではないのではないか。ひとりの人間に過ぎない裁判官の判決によって「犯人に罰が下されたよ、と天国にいる子供に報告する」のは、おかしいのではないか。少なくとも、学校の校長が「死刑判決は求刑どおりで至当の判断」というコメントを発するのは、教育者として見たときは、失格ではないのか。自分の教え子ではないのだろうが、教育の失敗として自ら反省すべきではないのか。その失敗を地上から抹殺することを「至当」と評価するのは、おかしい。むしろ、どうして宅間を生み出してしまったのか、どうして幼い8人の子供の命を守れなかったのか、真剣に反省すべきではないのか。

(03/8/31記) 

BACK TO HOME