小矢部市の南谷地区について


 小矢部市南谷は、小矢部市の中でも西北の石川県との県境に南北に細長く接する山間地です。ここは、戦後間もなくまで南谷村という村でしたが、昭和26年に石動町に合併し、さらに石動町と砺中町の合併により小矢部市が誕生したため、現在は、小矢部市に属しています。

 人口は、戦後間もなくのピーク時には2,200人くらいでした。現在は、山間部の人口は、減少していますが、後谷地区が、石動市街地に連なっている(市立石動小学校は後谷にあります。)ため、人口は、あまり変化していません。(多分)


[能登へ通ずる国道471号沿いに、北から順に次の11の集落が連なっています。]

 嘉例谷
 ここは、昔は、60軒くらいの家がありましたが、今は30軒余りになってしまいました。北隣は、石川県津幡町の河合谷です。

 荒間
 千石

 
 ここには10軒ほどの家がありますが、ほとんどが渡辺姓で、渡辺の綱の子孫を称しています。

 その中の1軒である母の実家には、「渡辺家の古面」という3つの面(能面)があり、市の重要文化財に指定されています。言い伝えでは、渡辺綱が酒呑童子を討ったときに使った面ということになっています。でも、鑑定では、1つは室町前期、1つが戦国期、もう1つは江戸初期の面だとのことで時代がまったく合いませんでした。

 この家は、小矢部市史では加賀藩制時代の初期には南谷一帯の「十村」(他の地方では大庄屋に当たります)をしていたということになっています。50年ほど前に火事で焼けるまでは渡辺綱の子孫であることを証明するという怪しい系図とかが、いろいろあったそうです。

 しかし、この「峠組」は、江戸時代の初めには、隣の宮島郷の「宮島組」に統合されてしまいました。その十村は、今は、大山林地主で知られる宮島地区(宮島峡とか子撫川ダムがあります。)の糠子島の稲原太左衛門家(たざえもん=屋号はどう書くのかよく知らない)です。

 岩尾滝
 ここには、谷坪野から北の集落の子供たちが通学する岩尾滝小学校があります。バランスの良いきれいな建物です。[岩尾滝小学校のホームページへ]        
                 
岩尾滝小学校


 論田
 ここには、渓明園という施設があります。遠くから見ると、森に囲まれた、日本とは思えないヨーロッパの雰囲気の施設です。         
                 
渓明園(実は障害者の福祉施設)


 谷坪野
 峰坪野

 道坪野(鳥瞰写真へ)
 ここは、昔は、70軒近い家がありましたが、今は、50軒余りになってしまいました。私と私の家族は、ここに住んでいます。
 ここには、小さな山城だった道坪野城の城跡が残っています。

 安楽寺
 ここには、昔、南谷村役場が置かれていました。また、安楽寺小学校という小学校があり、私は、子供の頃そこに通っていました。でも、ずいぶん前に石動小学校に統合されてしまいました。
 ここには、安楽寺砦の跡が残っています。ここは、江戸時代までの基幹道路だった北陸道の倶利伽羅峠の隣りにあります。今は、JR北陸本線、国道8号が走っています。

 後谷
 ここには、石動小学校があり、私の息子達が通っていました。
 この集落の南には、埴生地区があり、そこには、源義仲が倶利伽羅峠の戦いの前に戦勝祈願をしたという埴生八幡宮(社殿は確か重文です)があります。


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