道坪野城


高岡徹氏の「富山県小矢部川左岸地域における中世山城とその性格」
(1993年3月 富山市日本海文化研究所紀要第6号)から

 道坪野と峰坪野の両集落にはさまれた中間の山上(標高166.2m)が城跡である。ここは道坪野の小字「奥山」の一角にあたり、南麓からの比高は85m程度である。

 山上からは北西に峰坪野や谷坪野の集落、また西方一帯に加賀との国境線にあたる山並を望める。交通路の面でも、加賀からの山越えの道が砺波平野に向けて何本もこの道坪野周辺を通過しており、古来この地が国境沿いの要衝であったことをうかがわせる。おそらく、城がこの山上に築かれたことも、そうした点と深く関わるのであろう。

 城のプランは図19に見るとおりで、基本的には山頂部を削平した方形の一郭だけで、まわりに切岸や帯郭伏の平坦面をめぐらすものの、全体としては小規模なものである。


 郭の内部は37×37mの広さを有し、周囲には土塁がめぐらされた形跡がある。現存する土塁は南西側が最も高く、郭内から1mの高さがある。南東側にも土塁が続くが、高さはやや低く、0.7m程度である。また、北西側にも土塁の痕跡が見られるが、こちらは郭内に向けてだらだらと下る傾斜を見せ、明確な形ではない。おそらく、郭の周囲にめぐらされた土塁は、もともと小規模なものであったと思われる。それが後世に少しづつ崩されたことで、今見るような、かすかなものになったのであろう。

 この主郭には北端と南端に各1か所、開口部が認められる。この内、南端のものは下の斜面がだらだらとした傾斜であることなどから、後世に土塁を崩して、郭内へ入るために開けられたものとみられる。これに対し北端のものは、進入路が手前で少し屈析して入る形を見せており、こちらが本来の虎口にあたるとみられる。

 さて、主郭の周囲は南端部を除き、ほぼ全周にわたって、高さ3.5〜4mの切岸がめぐらされている。そして、その下には幅2〜4mの帯郭伏の平坦面がめぐらされている。この平坦面には、おそらく全域にわたり空堀が掘られていたとみられる。現在では、長い年月の経過で埋まったものか、北東側のようにわずかに低い痕跡を示すもの、また南西側のように一部にしか形跡をとどめぬものなど、さまざまである。最もよく形態を残す南東側の空堀で、深さl m程度である。

 このように、本城では山上の主郭の周囲に土塁をめぐらし、その下を人工的に切り立てた急斜面(切岸)とする。そして、さらにその下に帯郭状の平坦面と空堀をめぐらすことによって守りを固めているわけである。山上の主郭部を切岸と帯郭伏の平担面で囲むプランは、福岡町の鴨城や氷見市の高松城、福野町の安居城などとも共通するものである。

 ところで、城のすぐ南下を東西に走る道がある。この道は尾根筋の一段下を通るものであり、以前は道坪野〜峰坪野間の往来に利用されたものであろう。城の南端から南西方向に伸びた尾根筋が、この道を通すために掘り切られ、一見したところ、城の掘切(上幅5m)にも見えるが、その規模や形態から見て、後世の開削による切通しと考えたい。むしろ、掘切として注目したいのは、この切通しから尾根筋を13m下った所にある掘り込みである。こちらは実に大規模なもので、上幅15m、深さは北側(城側)で7m、また南側で3mにも達する。前述の切通しと比べれば、その差は歴然としており、こちらが本来の城の掘切であることは明白である。

 掘切の南側に立って城側を望むと、前面に北側斜面が高くそそり立っており、ここが尾根伝いに城へ上がる敵を防ぐ、大きな守りであったことを示している。次に、この城に関する文献史料を掲げる。

〔宝暦十四年砺波郡古城跡山塚寺社古跡等書上申帳〕一、道坪野村領山之内古城之跡有之候、先年影野左衛門と申者居城之由申伝候
〔越中古城記〕一、道坪野村塁跡往古松岡新左衛門与申人居住之由
〔越の下草(流布本)〕一、道坪野村古城宮島郷道坪野村にあり。
             はるか山中にありて小城なり。段々に丸を構へし跡ありて、四方より築ぎあけしまヽ残れり。城主三宅新左衛門尉居住のよし云伝え、時代しらず。

 この内、『越の下草』が「段々に丸を構へし跡ありて、四方より築きあけ・・」と記すのは、主郭の周囲に帯郭や切岸をめぐらした形状を述べたものであろう。また、規模を「小城なり」と記すのも、遺構の現況を正しく表現している。なお、城主については影野左衛門や松岡新左衛門、三宅新左衛門尉などの名があげられているが、いずれも詳細は不明である。

 城の規模や構造からすれば、戦国期にこの道坪野付近を本拠とした土豪が築いたもののようである。ただ、『三州志』は『越の下草』の記事を引用し、三宅新左衛門のことを「長盛の族か」と記している。すなわち、戦国末の能登畠山氏家臣であった三宅長盛の一族ではないかというのである。しかし、この点についての確証は得られない。能登に近いことを考えれば、あるいは一時的に三宅氏がこの地に進出したこともあるかも知れないが、今のところ、裏付ける史料はない。

※踏査平成4年1月5日・11日


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