「お前、風邪はもういいのか」 
 「はい」 
 「単刀直入に言うわな」 
 そこまで言われて、和紀はやっぱりかという思いがした。 
 「お前、酒やろ?酒で会社休んだやろ?」 
 「…………」 
 「酒、やめれんらしいやないか」 
 「この前、K建設へ行ったら、お前酒臭くて危ないから、現場に入れられないというとったぞ」 
 「…………」 
 和紀は、ここまで来たら開き直ろうとする思いと、否定する気持ちが働いて、無言で頭を垂れていた。 
 「会議のときも酒臭いし、酒やめんといかんわなっ」 
 「娘さんもこれからだろうし、娘さんは今何年生や?」 
 「四月から中学です」 
 「大事な時やな。酒やめんといかん。やめるか?」 
 酒で苦しいのは事実である。しかし、すっぱりとやめられるだろうか。 
 「……はい。できればやめたいです」 
 「ただで酒はやめられんぞ、自分が変わらんとな。どんな方法をとるや…」 
 「はい。しかるべき所でカウンセリング受けながら治してみたいです」 
 「そうか、よしわかった。後は俺に任せて養生してこい。但し…」 
 「但し、家にいたらあかん。家でじっとしていても、酒はやめられんのや」 
 「はい」 
 カウンセリング。それはかなり前から、和紀のなかで考えられていた事だったが、言うに言われず、その苦しさを放置していた。 
 「このことを、お前の奥さんに話してもいいな?」 
 「はい。いいです」
  
 「いや、お呼び立てして恐縮です」 
 「実はご主人のことで、お話ししておきたいことがあるものですから」 
 咄嗟に玲子は、和紀の酒についてのことだと察しが就いた。 
 つい二三日前も、会社の花見で用足しに立ったときに、土手から川に落ちて、家まで担ぎ込まれたばかりである。上司からの呼び出しで和紀の会社に来ている。予期していたものの、膝が震えて止まらなかった。 
 (まさかクビ……。)それを通告されても仕方がないところがある。 
 もう、玲子自身も、和紀の酒のことでは疲れ果てていた。 
 出されているお茶を飲んで、唇を湿らせると覚悟を決めた。 
 「何時もご迷惑ばかりかけています。主人の酒のことでしょうか」 
 しっかりと腹に力を入れて、聞き返した。 
 「そうなんですがね。このままいくと会社も困るし、本人にとっても良くないですからね。随分前から酒は好きなようだったですが、最近はどうも…」 
 「はい。申し訳ございません」 
 顔から火の出る思いがした。 
 「最近では、やめられなくなっているんではないかと思っています。娘さんも四月から中学だそうですし、このままいったらクビは確実ですからね」 
 「はい」 
 その言葉で、玲子はほっとした。まだクビまでには時間が残されているのだ。 
 安堵感で体が崩れそうになるのを、必死で堪えた。 
 「それで、このことをご主人にも話したんですが、治療を受けて酒をやめると言うもんですから、是非とも奥さんの協力が必要で来て頂いた訳なんです」 
 「ああ、はい」 
 夫が酒をやめると聞いて、意外な気もした。 
 上司の、厳しいなかにも温かい話しぶりに、思わず涙が溢れた。 
 どれだけ家を出ようかと思ったときもある。 
 二度目の離婚は出来れば避けたかった。今は千明もいるのだ。 
 僅に頼りなげであるが、暗闇のなかに小さな明かりが見えたような気がした。 
 「主人がそう申したのなら、私も頑張ってみます」 
 「奥さんは確か、看護婦さんをしてらしたですよね」 
 「はい」 
 玲子は目元にハンカチを当てながら、小さく返事をした。今は辞めて家にいるとも言った。 
 「私どもには、適切な治療を受けさせる場所が何処なのかわからないもので、その辺りも調べて欲しいんですが……」 
 「はい」 
 玲子には、少し声の張りも戻ってきた。 
 和紀を無視する一方で、もしやとの思いから下調べはしてあって、心当たりがある。 
 その後、いろいろと和紀の酒について話を交わして、会社を出た。 
 出たところで空を仰いだ。青空のなかに刷毛で引いたような薄い雲が浮かんでいる。 
 少し時期は違うが、和紀と初めて出会ったのも、春の頃だったと、しみじみと思った。 
 家に帰ると、入れ違いになった和紀は、自分で床を延べて横になっていた。 
 「明日から会社どうするの?」 
 上司に逢ってきたことは伏せておいて、それとなく和紀にさぐりを入れた。 
 「うん。上役に入院すると言ってきた」 
 上司に諭された筈なのに、自分で決めたようなことを言う和紀に、むっときた。 
 「そう。それでどうするの?」 
 玲子は、自分からは言わなかった。 
 実情を知る玲子には、精神科という言葉の響きが重くのしかかっていて、口にすることができなかった。 
 「何処かないやろうかなあ」 
 力なく人ごとのように言う和紀に、吐き出すように言った。 
 「市民病院よ。知らないわけないでしょ。市民病院の…精神科」
  
 翌日、二人は病院を訪れた。 
 精神科外来に行くと、窓口の脇に曜日ごとに医師の名前が記された案内板があって、木曜日の欄に、アルコール外来と書かれている。 
 露骨なものを目の前に突き出されたようで、強い反感を覚えた。 
 火曜日にもかかわらず、受け付けされ、玲子が呼ばれて暫くしてから和紀も呼ばれた。 
 医師は、酒について簡単に聞いたあとで、縁取りされた白い紙を和紀に渡して、 
 「これから言うことを、ここに書いて下さい」と言った。 
 その紙面に、実のなる木を書けと言う。 
 和紀は、紙面の右上に頼りのない、小さな柿の木を書いた。 
 そして、医師の次の言葉を待ったが、もうそれでよいと言う。 
 次々に書いていくのかと思っていた和紀は、憮然としたが、医師は気付きもしなかった。 
 医師に言われたとき、和紀は多少の絵心があったので、気楽に構えていたが、いざ書いてみると、自分でも不甲斐なく思えるほどの出来で、その上、もう書かなくてよいと言われ、当てが外れてしまった。 
 医師は、それを持って隣室に消えたが、再び紙面を持って現れ、和紀の絵を指してこれは何ですかと聞く。 
 木肌に出来た皺だと答えると、 
 「わかりました。後ほど主治医が来ますから」と言って、何処かに行ってしまった。 
 退院して、大分経ってから、これがバウムテストだということを知った。
  
 何処かに行っていたらしく、急ぎ足で部屋に入ってきた主治医は、小柄で如何にも頭の切れそうな人物だった。 
 問診、触診、の後で、和紀の家系のことにも聞き及んだ。 
 「ああ、それではなりますね」と得心したように言った。 
 それぐらいで、どうして分かるのだろう。和紀には不思議な気がした。 
 しかし、普通の病気では聞かれない家系のことにまで、話が及んだことで、特別な病気のように和紀の心はくすぐられた。 
 通院でやってみますかと言われたが、上司との約束で、家にいないことが条件である和紀には、それでは困る。それに、通院ではやれる自信もなかった。 
 病気に箔をつけるためにも、入院という大義名分が必要だった。
  
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