閉   鎖   病   棟

(三)


 その日の朝は、四月だというのに底冷えのする朝で、家並みの外れから見える畑には、うっすらと靄が漂っていた。
 登りはじめた朝日が、弱々しくそれを照らしている。
 何処かで、ヒヨドリの尾を引いた長い鳴き声も聞こえてくる。
 和紀は、緊張のあまり夕べは良く眠ることができずに、ぼんやりとした思考のない目で、二階の窓からそれを眺めていた。
 今日からは、苦痛に満ちた家に帰ることもない。それはそれで、ある種の気楽さをもたらせたが、一方で、千明の入学式に、こういう形で立ち会えない自分を不甲斐なく思って、心が重く沈むのを否めなかった。
 和紀にとって、玲子に対するよりも、千明に対する罪の意識が強く働いていた。

 「ちあきちゃん。ここへ来ちゃ駄目ですよ」
 「ささっ、あっちへ行きましょうね。ちあきちゃん」
 ちあきと呼ばれて、一瞬三人はたじろいだ。ナースセンターに入り込んだ患者の一人が、どうやら千明と同名らしいとわかって、ほっとしてほほえんだが、三人の目は笑っていなかった。
 婦長の案内で、面会室に入ると、所持品の全てに名前を書き入れるように言われた。
 間もなく中学へ進む千明は、努めて明るく健気に手伝ってくれていたが、その健気さが、和紀にとっては居たたまれない苦しさとなって迫ってきた。
 「もういいよ。後は父さんがやるから」
 やや捨て鉢に言って、その場を凌ぐのが精一杯だった。
 暫くは何もできずに、込み上げてくるものをじっと堪えていた。
 それが済むと、婦長の入院についての注意を聞いた。
 ナイフは勿論のこと、紐状のものやボールペンのように先の硬い筆記具は所持品検査で、前もって調べられるが、日常の小遣いも月三千円と決められていて、院内の銀行の出先に預けさせられる。それも自由に引き出せる訳ではなく、決められた日に、婦長から小遣い帳を渡され、それに出納しなければならない。
 嗜好品の煙草も、ナースセンターで管理され、自由がきかない。
 三人は、俯いたまま婦長の説明に聞き入った。病室へ向かうときが来た。
 「それじゃあ」
千明は言った。  「それじゃあ」
ともすれば総崩れになる全身の気力を振り絞って答えて、千明の頭を撫でた。
(こらえてくれ、堪忍な)
 和紀は自分のことより、千明が不憫に思われて仕方がなかった。
 「家のことは心配しなくていいですから…」
 「うん」
 「千明のセーラー服、写真撮って送りますから…」
 「うん」
 玲子とは、余り話したくはなかった。
 しかし、玲子達が面会室を出ると、婦長はさっさと二重扉に鍵をしてまった。
 強化ガラスの向こうへ去っていく二人の姿を目で追っていると、取り残される寂しさが心をよぎった。
 短い間に様々な思いが折り重なって、ずしりと和紀の上に覆い被さっている。
 自然、和紀は無口になっていた。
 案内された病室は和室であった。病院の病室をベッドだと思い込んでいた和紀には、奇異な感じさえした。多少日に焼けた畳の上に、向こう側に三人、こちらの入り口側に一人、患者がいる。
 いずれの患者も、精気の薄れた濁った目をして、新入りの和紀を興味深そうに眺めている。肌のいろは土気て薄笑いを浮かべているのに、少しむっとなった。
 和紀のために、入り口側の奥に布団が敷かれていて、すぐに点滴が施された。
 これから三ヵ月、どのような生活が待っているのか、看護士が無造作に刺した針先の不自然さを感じながら、ぼんやりと天井を見つめ、電灯の明るさに暮れていく一日を振り返っていた。

 閉鎖病棟は、南病棟の四階にある。混合病棟で、中央のディルームを境に、男子と女子に別れている。
 窓枠の外に、鉄格子が嵌められていて、一日目の朝は愕然として涙を流した和紀も、諦めているうちに、次第に慣れてきた。
 アルコール患者は、和紀達の一室しかないことがわかり、和紀を含めて四人で、二十歳になる布目君と、五十六になる田中さんは、警察から廻ってきた強制入院で、和紀と同じ四十五歳の橘さんは、家族の了解もある同意入院である。
 閉鎖病棟には、さまざまな人達が同居していた。
 アルコール患者と同室の、入り口側に寝起きしている髭面の患者が、通称クマさんで、噂によると分裂病ということになっていた。
 クマさんは、毎朝七時に行われる検温にも出ないし、朝御飯にも滅多に顔を出さず、ひたすら布団にくるまっていた。ひとことも口を利かず、気分のよいときは髭面の下に隠れた真っ赤な唇で、ニッと笑うだけで、不気味な人だから、アルコール患者はクマさんを敬遠して、誰も近寄ろうとはしなかった。
 まだ暗いうちから、大きめのスリッパの音を立てて、廊下を行ったり来たりするのが清ちゃんで、行ったり来たりしながら歯のない口から、せわしなく舌を出し入れし、ナースセンターでしつこく煙草をねだる。清ちゃんの喋る言葉は、薬の副作用もあって、なかなか聞き取りにくい。
 コーちゃんは、洗面時間になると、洗面所に並ぶ八つの蛇口から、順に水を飲み、何時も布袋さんのように、お腹をぱんぱんに膨らましている。  コーちゃんが閉めないでいる蛇口の栓を順番に閉めていき、最後の蛇口で、インスタントコーヒーを水溶きするのが、少し訳知りの島原さんである。島原さんは、癲癇癖があるが、大学出のエリートということになっていた。
 閉鎖病棟でのアルコール患者は、これといったアルコールに関する活動はなく、週一回、集団治療室で行われる断酒ミーティングに出るのみで、ここでの一ヵ月間は身体の治療に重点がおかれる。
 その殆どが、点滴と投薬で、週に一回、主治医の診察がある。
 その日の引き継ぎと、準備が終わる九時半頃になると、点滴が始まる。
 患者四人が枕を並べて点滴するので、このことを誰言うともなく、マグロと言って、半ば自嘲してたいた。
 アルコール患者は、自分の酒を飲んでの過ちを誰も話したがらない。
 だから、和紀も強制入院することとは、どんなことなのかも全く知らなかったし、和紀自信のことも、誰にも話さなかった。
 ただ、和紀よりも一週間前に入院したという田中さんが、鼠、鼠と言って、幻覚で部屋の隅に怯えていたのを見て、普通ではないぐらいにしか思っていなかった。
 だから、マグロが終わると、ディルームのテレビを見るか、ぼんやりと畳の上に寝転んで、一日を過ごすしかなかった。
 何日か経って、隣に寝ているクマさんが、夕食後の薬を飲んだ飲まないで、島原さんと口論になり、ディルームのスタンド灰皿で、島原さんの頭を殴り、怪我をさせてしまって、保護室入りとなってしまった。幸い島原さんの怪我の程度は大事には至らなかったが、クマさんがいなくなって、気遣いがなくなり、余計にだらけてしまっていた。
 ごろごろと暇を持て余している和紀達を見て、診療心理士は、自分達の酒について考えることが、自分達の治療に繋がるのだと何度も言ってくれたが、けだるさが先に立ち、何をどうやればよいかより、自分にやる気を起こさせることが問題だった。
 おまけに、病棟の日中はテレビを見る者、プレィヤーで音楽を聞く者、それに併せて歌う者、患者同士の雑談から嬌声を発する者と、そのいずれの音量も一人になることが多かった和紀の、許容量を遙かに上回っているのである。
 日が経つに連れ、玲子が恋しくなった。面会もままならず、時折りする電話も、ナースセンターの前にあるので、看護婦の目が気になって思うようには喋れなかった。
 しかし、和紀が思う玲子と、週一回のミーティングに訪れる玲子とでは、隔たりがあった。そんな玲子を見るたびに、和紀は自分の手の届かない所にいる他人を感じてしまっていた。
 月は変わり、やがて五月になろうとしていた。