酔   い   ど   れ   記

(一)


 桜の花は散って、老いた樹々の枝には、浅葱色の若葉が芽吹いていた。
 波打つように風に揺れたとき、葉の先の産毛までが、透き通るように輝くのが見て取れた。
 夕暮れといっても、日の落ちるにはまだ少し時間が必要な頃だった。
 (ひとりか……)
 中地川にかかる橋のなかほどで、玲子は川面を見るともなく深く心でつぶやいて、コートの襟を引くようにして立て直した。
 (ひとりか……)
 (もう、ひとりでやっていくしかないのか……)
 もう一度つぶやくと、背筋に寒けを感じて、コートのポケットで拳を固く握り締めていた。幸夫と暮らした五年の歳月が、玲子の脳裏を走馬灯のように駆けめぐった。
 玲子は疲れ切っていた。
 春だとはいえ、まだ浅い夕暮れの風は、玲子の疲れた体には冷たすぎた。
 突然の轟音に、玲子ははっと我に返った。千石橋の上を市電が通り過ぎたのである。
 街の喧騒も、いまの玲子には遠いものとなっていた。
 重い足取りで橋を渡ると右に折れ、中地川沿いに公園のほうに向かって歩きだした。
 一組の男女が、肩を寄せ合い背を丸めるようにして、楽しそうな笑い声を残して玲子の脇を通りすぎていった。そこには、誰も入ることのできない世界が二人を包んでいる。
 (私にも、あんな時期があったのね)と
 フッと自嘲気味の寂しい笑みを漏らさずにはいられなかった。


 道はいつしか桜並木を外れて、太い欅の古木に覆われた深い森へと続いていた。
 玲子は、敷きつめられた子砂利の上を、一歩一歩確かめるようにして歩いていた。
 あたりは薄暗く、人の通りも途絶えがちで、欅の古木の根本に咲いたれんぎょうの黄色い花が、ぼんやりと行灯の火のように映っていた。
 通称、瓢箪池の太鼓橋を渡ろうとして、玲子は、ゾクッとしたものを感じて 足を止めた。何か獣のような呻きが聞こえる。
 それは、れんぎょうの垣根を越して、まだ固い蕾のチューリップの脇の粗末なベンチのある辺りからである。
 一瞬ためらったが、玲子は自分の周りを確かめてから、腰を折るようにして呻きの聞こえる方へと、恐々と、だが慎重に足を運んだ。ヒールで踏みしめる子砂利の軋みが、辺りの空気を否応なしに緊張へと導いていた。
 呻きは、陰に籠もったり、短く途切れたりしているが、その黒く蠢くものが人だと気づく距離まで来て、玲子のなかに張り詰めたものが漲り、背筋は伸びていた。
 人は男で、20代後半から30代前半と思われる。着ている物はこざっぱりとしているが玲子から見て、やや後ろ向きにうつ伏せに横になった男は、苦渋に満ちた顔面を苦しさの度合いに応じて左右に揺らせ、短く、長く呻いていた。
 さらに男に近づくと、額には脂汗を滴らせ、それが不精に伸びた顎髭にも流れて、僅かな明かりに、野の草が朝露を含んでいるのを思わせた。
 男が苦し紛れにこちらを向いたとき、玲子と目が合った。
 力なく上目遣いに玲子を見る男の目に、羞恥を越えた哀れさがあった。
 助けを請う悲しい目であった。


 背後からドンと突かれるような衝撃を覚えて、
 「大丈夫ですか」
 そういいながら近寄ると、玲子は素早く男の手首を取っていた。
 ムッとする大蒜の腐敗したような匂いが、男を包んでいた。
 それが酒の匂いであることに気づくのに、そんなに時間はかからなかった。
 玲子は匂いにひるむことなく、男の手首から脈を読み取った。
 玲子は幸夫との生活のなかで、すれ違いが多く、幸夫が好まなかった大学病院の看護の職を辞めて、専業主婦として一年を過ごしたが、幸夫との気まずく不自然な生活の建て直しはできなかった。
 別居してさらに一年、今、玲子は家裁の調停からの帰途であった。
 彼女は看護婦という職業を、とても大切にしていたし、看護婦という職業が好きだった。
 幸夫さえ理解してくれれば、彼女には病棟婦長の道も開かれていた。
 そんな気持ちが、見ず知らずの男との薄暗い場所での恐怖を支えていた。
 男の脈は、例えようもなく早く、残された右手で自身の胸を激しく掻きむしっている。尋常でないことは容易に理解できた。
 「大丈夫ですよ。私が何とかしてあげますから」
 「しっかりしてくださいね。しっかりね」
 玲子の言葉にも、男は僅かに頷くように短い呻きをあげるだけだった。持っていたタオルハンカチを瓢箪池の澱んだ水で湿らせると、男の額にあてた。
 水の汚れはどうでもよかった。〈一刻を争う〉そんな気持ちが彼女をそうさせた。
 「今、助けを呼んできます。いいですか。ここを動いちゃ駄目ですよ」
 「救急車呼びますから、もう少し待っててくださいね」
 救急車と聞いて、男の目に一瞬怯んだような光が走ったが、今はもう玲子だけが頼りだった。諦めと、懇願の眼差しで見つめられると、職業婦人としての彼女の気持ちが激しく働いて、先程までの暗い気持ちを打ち消していた。


 公園の子砂利を敷きつめた散歩道までは、救急車は入れない。
 ましてや道の入り口には、自然石の大きな車止めがある。
 電話を終えて、足早に男の元に戻った玲子は、男の脇を抱えるようにして立たせようとした。男の足には力がはいらないようだったが、玲子の励ましで引きずるように歩み始めた。
 玲子がよろめいた瞬間に子砂利を跳ね、男が飲んでいたであろうウイスキーの空のボトルが、チンと小さく澄んだ音をたてた。
 玲子のコートが、れんぎょうの垣根に纏わり、煩わしさのあまり力任せに引くと、はらはらと、黄色い花びらが散った。そのうちの何枚かは、風に乗って瓢箪池の水面に浮いた。
 叱りつけ、励まし、よろける男を玲子は必死になって支えつづけた。
 彼女にすっかり身を預けて頭を垂れ、俯いたままの男の半開きの口からは、粘りのある長い涎が垂れて、それが風に流されて玲子の白いブラウスにも付着した。
 去年の暮れの誕生日に、実家の母がプレゼントしてくれたもので、胸にフリルの付いた彼女がお気に入りのブラウスだったが、この際さして気にもならなかった。
 相変わらず男の体からは、強烈な酒の匂いがしたが、かえって強烈な匂いのために、彼女の嗅覚は麻痺してしまっていた。
 やっとの思いで薄暗い欅の古木の通りを抜けると、桜並木にさしかかったが、この辺りからは、人通りも多くなる。
 尋常でない二人の姿に、小走りに道をあける者さえいて、遠巻きに見つめられると、玲子は恥ずかしさに頬を赤らめたが、毅然として男を励まし、千石橋の大通りに目をやって、歩きつづけた。
 華やかなネオンの向こうから、近づいてくる複数の人影が、黒い塊となって見えていた。