酔   い   ど   れ   記

(二)


 二人が出会ってから、三ヵ月がすぎた。
 男の名は、氏家和紀といって、歳は玲子より一つ下の二十九であるといった。
 彼の出身は山陰の小都市で、中堅大手の建設会社に勤務しているとのことで、K市からの転勤で、中地川のあるこの地に来て、もう六年が経つ。
 彼の実家は、厳格な元公務員の父親を中心に、献身的な母親、そして兄二人に、姉が三人、父と反りが合わない長男夫婦は、実家を抜け出して、近くに自分の家を持って、女の子二人と暮らしているが、父と反りが合わないのも、厳格な父と、自分たちだけで自由に暮らしたいと思う兄嫁との確執であろうとのことであった。和紀のすぐ上の兄も既に結婚していて、一男二女をもうけ、三人の姉たちは、他県に片づいているということだった。
 そんなことを、玲子は度々の見舞いのなかで、和紀から聞いて知っていた。

 「顔色もずいぶんとよくなったのね」
 今日も玲子は和紀の見舞いに訪れていた。
 「これも玲ちゃんのお蔭です」
 三ヵ月という時間が二人を近づけていた。
 和紀は玲子の整った顔だちを、初夏の日差しのなかで眩しそうに見つめて言った。
 屋上からの眺めは素晴らしく、遠くに波立つ日本海が眺望できた。
 洗い晒しのシーツが風に揺れて、清々しい気持ちにさせてくれた。
 玲子は、ほつれた長い髪をかきあげると、振り向いて和紀にこう言った。
 「この間の話ね、もう少し考えてみたいの。あなたと会う前から、私、自分が分からなくなっているのよ」
 「あの人とのことで、自分がみえなくなってるの」
 少し悲しげでいて、それでも芯の強さを思わせる濁りのない目で和紀を見た。
 和紀は、玲子が時折見せるそんな目が好きだった。瞳の奥に吸い込まれるような快感を覚えて、今すぐにでも抱きしめたい衝動にかられた。

 「そんなことはないよ。玲ちゃんはちゃんと自分が見えているよ」
 「現にこうして俺のところに来てくれているじゃないか」
 和紀は、玲子を自分から離したくはなかった。玲子からこんなふうに言われると、自分の手の届かない所に行ってしまうようで、道理のない説得を繰り返していた。
 「でも、もう少しだけ」
 玲子の言葉に、和紀は子供のように拗ねてみせ、屋上の白壁を拳で叩いていた。

 真夏の太陽がアスファルトを溶かし、野辺の向こうに逃げ水が立つころ、和紀は病院を退院した。
 あの生死をさまよった時から、四ヵ月が過ぎた。
 退院すると、すぐに和紀は海の見える小さな町の現場に送り込まれた。
 玲子とは二週間ぐらい逢っていないが、随分と逢っていない気がしていて、三日にあげず彼女宛の手紙を書いた。しかし、玲子からの返事もそう度々来るものでもない。
 この現場に来てからというもの、玲子に逢えないことで、再び酒を飲むようになっていた。
 退院の少し前に、屋上で交わした接吻が忘れられず、甘く、ネットリとして吸いつくような唇の感触が、逢いたさを一層募らせた。
 仕事のあいだは、少しは玲子のことも忘れることはできたが、夕陽が山の端にさしかかり、自分の部屋に戻ると、侘しさとともに玲子への激しい思いが重なっていった。
 玲子と頻繁に逢えないことを仕事のせいにして、仕事の煩わしさを酒に変えて行く自分を、心のどこかで他人に認めさせようとしていることに気づいてはいなかった。
 元々彼は、進んでこの仕事に就いたわけではないと自分では思っていた。
 直ぐ上の兄が大学院を目指し、家計的な負担も考え、自分の進学は諦めたが、父の言いなりで高校の専科を卒業し、今の会社に入った。
 しかし、自分は文系の人間で、理数系の今の仕事は、自分に与えられたものではないように思えてならなかった。
 思うに任せない仕事ぶりを、上司に叱責されることもしばしばで、そんな時は自分を分かれとばかりに上司に向かって対立し、その場で退職宣言をしたこともあったが、同僚の取りなしなどで難なく撤回していることも一度ならずあった。
 こうしたことを繰り返すことが、自分を窮地に追い込むことになるのだが、我が儘を「異端児」と言われることで悦に入り、深くは考えようとしなかった。
 二年ほどにもなると、イラスト、俳句、鉛筆画等の通信教育も試みて、何とかそれで身を立てようとしたが、いずれも長続きはせず、半年ぐらいで投げ出している。
そんなことだから、仕事に身が入る筈がなく、何事にも中途半端な人間であった。この中途半端さが劣等感を増長させ、常にひがみっぽい人の道を歩んで来たのである。
 ましてや今は、玲子という存在が彼全体を支配しているときである。
 何事も思うとおりに運ぶ事はなく、日を追うごとに酒量が増していって、いつしか職場のなかでも、一二を争う酒豪になっていた。

 セピア色の午後の日差しは、中地川の浅いせせらぎに反射して眩しかった。
 川沿いの桜並木も、もうとっくに葉を落として冬を迎えようとしている。
 あの欅の森も、重なった枝枝が青い空をバックに灰色に霞んでみえた。
 あれから二度ほど玲子と逢うことができたが、今日は玲子からの誘いである。
 和紀はことのほか嬉しかった。
 浮かれついでに割烹で飲んだビールの酔いが、密かに玲子への期待に変わっていた。
 二人は指先を軽く絡めて川沿いの散策を楽しんだ。
 (何年ぶりだろう……)(こんな気持ち……)
 玲子のなかでも、和紀への思いが充実したものとなっていた。
 冷たい風が二人には心地よかった。
 「座らない」
 山茶花の垣根に囲まれた少し広めの芝生のところまで来ると、玲子は乱れた髪に手をやりながら言った。
 少し俯き加減の玲子の唇に差した紅がいつもと違うことに、和紀は今になって気づいた。
 垣根を背にして、風を避けるようにして枯れた芝生の上に腰を下ろすと、何方からともなく、互いの唇を求めて抱き合った。
 抱き合いつつ芝生の上に倒れた。むさぼるような長い抱擁であった。

 「私、決めたわ、あなたと一緒に生活することに」
 和紀のセーターに着いた芝生の屑を、丁寧に取り除きながら玲子は続けた。
 「何度別れようかと思ったか知れない。でも、そこまでできなかった」
 「あのベンチで逢ったときから、何か運命みたいなものを、あなたに感じていたの」
 「ねっ、一緒に生活してくれる」
 和紀は、玲子の言葉が終わらないうちに、玲子の唇を唇で塞いでいた。