酔   い   ど   れ   記

(六)


 季節が晩夏から初秋へと移りつつあるころ、和紀は一時間余りの仕事場へも、二三度、脇道に車を停めて、横にならなければならないほど疲れてきていた。
 右の脇腹に重い腫れを感じ始めて、寝返りを打つと、臓器がゴソッと音をたてて他の臓器を圧迫するように思えた。食欲は失せて、体は酒しか受け付けなくなっていた。食卓に並べられたおかずの匂いからも吐き気を覚えて、少しのものを胃に入れるのがやっとであった。
 暮れも押し迫ったころ、和紀は肥大化する臓器を抱えている恐怖に堪えかねて、その様子を玲子に訴えた。すかさず玲子は、以前働いていた病院に連れていったが、その場で直ぐに入院となった。和紀、二度目の入院である。
 「正ちゃん、いる?」
 「おうーッ、いたいた。どう?最近の景気は」
 「正ちゃんね、今日、自転車の子供を跳ねたんだって」
 「どこで」
 「建設会館の前の、ホラッ。あそこって脇に細い路地があるじゃない。あそこから
  急に自転車で飛び出してきて、ブレーキかけたんだけど間に合わなくて、
  バンバーで自転車の前輪、ひっかけたんだと」
 「前輪ひっかけたぐらいじゃたいしたことなかったやろ」
 「怪我のほうは病院行って、レントゲン撮ってもらったら異常がなかったんやけど、
  膝を二針縫ったらしい」
 「なーんや、二針ぐらい。平気平気」
 「相手の親も、自分の子供が悪かったもんで、そんなに強く言うてはおらんらしいけど
  正ちゃん、二度目やろ」
 「二度目?何が二度目や?」
 「知らなかった?ウーチャン。酒気帯び人身。免停とれてすぐだから。
  今度やったら取り消しだって、警察から言われていたらしいのよ」
 「そうか。取り消しか。正ちゃん、運転手だもんな。痛いわなぁーそれは」
 「ママが飲ませたんやろ」
 「冗談やめてよ。今日は正ちゃん来てないもの」
 このスナックは昼は喫茶店をやっているが、常連の正ちゃんや和紀、それにマエさんや、チックさんには昼間からでも酒を出してくれる。
 「そんであんなにしょげて元気ないのよ。会社もクビだっていうから」
 「エッ?会社もクビかぁー」
 「元気つけてあげてよ。ウーチャン。独り身だって会社クビになれば寂しいわよ」
 「よっしゃ。俺にまかせとけ。元気つけたる」
 正ちゃんは和紀よりも三つ年上で、このスナックからしばらく行った川淵のアパートで印刷工場の運転手をしながら独りで暮らしている。酒が好きだった。
 「正ちゃん。元気出しなよ。一緒に飲もう。怪我も大したことなかったし、
  なっ、一緒に飲もう」無理に正ちゃんにグラスを持たせると、
 「正ちゃんの退職祝いに、カンパーイ。ホラッ、ママも早く、カンパーイ」
 「カンパーイ」正ちゃんはモグモグと呪文を唱えるように小さく呟いたが、
 和紀につられて、グラスのお湯割りを一気に飲み干した。
 「ヨーッ。やっとるな、アル中ども」
 「アッ、ヤンペイ先生いいところに来た。今、正ちゃんのクビ祝いやっとるとこです」
 「ホー、クビ祝いね。アル中どもだからクビになってもしょうがないわな」
 「退職金出るのか、それで」ヤンペイ先生は、三軒おいて隣の、書道塾も経営する高校の国語の教師である。晩酌のあと度々ここへ顔を出す常連の一人だ。正ちゃんは俯いたまま、手を左右に振って身振りで出ないと言った。
 「当たり前や。ウーの字。お前も下手するとクビもんやでえ。ガッハッハハ」
 「何言うとるか。くされ教師めッ。俺は大丈夫。絶対大丈夫」
 「ウーの字。世の中に絶対ということは少ないもんや。全く無いと言ってもいいかも
  知れん。そやから、そのうちお前もガッハッハハ」
 「……………」
 ドキリとして言葉を失った。コンビニで焼酎を買うお金がなくなると、仕事は下請けに任せっきりにして、夕方の四時ごろには再三顔をだしている。
 払いは、あるとき払いの催促なしで、何時でもよかった。
 九時頃になって、保険外交員のヨーコと司法書士のチックさんが首を振り振りやってきた。チックさんは、軽いチック症で首を左に傾けるたびに、反対の右目を強く瞬きするので、初対面の人はウインクだと思って、気分を害する人もいる。
 ヨーコは和紀の横の席が空いているのを見て、弾むように腰を掛けると、和紀の顔を穴の開くほど見つめていた。
 「ヨーちゃん。ウーちゃんがいて嬉しいでしょ」
 「うん。嬉しい。私、ウーちゃん大好きなんだもの」
 「今日は何にするの」ママに聞かれると、子供のように、
 「今日はウーちゃんと一緒でいい」と言って、また、まじまじと和紀の顔を見つめた。
 ヨーコは夫と別れて二人の子持ちであったが、しばらく前まで付き合っていた男がヤクザまがいの男だと分かり、別れきれないで和紀に相談を持ちかけているうちに、彼に好意を持ったらしい。ヨーコは和紀のもっとも嫌う太めの体に、厚い唇を持ち、化粧も鼻につくくらいの濃い化粧をしていた。
 しかし、和紀の我が儘な言いつけでも、しもべのように従順だったから、和紀はヨーコの好きにさせておいた。
 十一時になって、不動産屋のマエさんが、ホステスのリョクちゃんを連れてやってきて、正ちゃんのクビ祝いは盛り上がった。  マエさんとリョクちゃんは出来ていて、このスナックでは公然の秘密なのだが、このリョクちゃんは、ほっそりとした体に艶のある長い髪を肩まで垂らし、顎の辺りが涼しそうな美人で、小さな足の指に、真っ赤なペデキュアをしている。玄人みたいにすれっからしたところがなく、ここを訪れる男共のマドンナ的存在となっている。和紀は密かにリョクちゃんに好意を抱いていた。
 しかし、リョクちゃんはマエさんにぞっこんだから、和紀などは眼中にない。それでも、マエさんに言われて付き合いで和紀と踊ってくれることがあったりすると酔いも忘れて、体が小刻みに震えるのを覚えた。
 十二時近くになって、皆は帰っていったが、残ったのは和紀と正ちゃん、それに外交員のヨーコの三人だった。正ちゃんはカウンターにうつ伏せになっまま、ゲゲッとゲロを吐きはじめた。
 「きたなーい。ママ、正ちゃんおゲロはじめたわよ」
 ヨーコの声に奥に入っていたママが、仕切りの間の暖簾から首を出した。
 「あーぁ。しょうがないねぇ。正ちゃん大丈夫。正ちゃん」
 ママが正ちゃんの手当をすると言うので、ヨーコと二人でスナックを出た。
 スナックの入り口から少し離れると、辺りを見計らったヨーコが
 「ウーちゃん。キスしてキス」と唇を尖らしてキスをねだってきた。
 ふらつく背中をブロックの塀にもたせ掛けて、キスをした。酔っていてもヨーコの化粧の匂いが鼻につく。吐きそうになって唇を離したが、再びせがまれてキスをした。キスをしながら、ヨーコのスカートの下から手を入れた。ヨーコは拒みもせずに、和紀の手を迎え入れた。

 和紀は二度目の入院から、二ヵ月近く酒をやめていたが、玲子が千明の子育てにのめり込むようになって、和紀を振り向いてくれないことが多くなったいったことと、頼み事をしても、突き放すような冷たい素振りであしらわれるのに、腹を据えかねてて、玲子が何も言わないことを逆手に取り、再び酒を飲みはじめていた。
 千明ができたことで、今までのように金も自由にならなくなって、街は諦めたが、何気なしに入り込んだスナックのママが、和紀やそれに正ちゃんたち弱い者を理解してくれるように思えたし、事実、気の弱い彼らのことを、柔らかい真綿でくるんでくれるような、包容力も持ち合わせていた。
 家にいて、無視されるような険悪な空気のなかに身を置くよりも、居心地がよかった。
 そして、毎日のようにスナックにいることは、玲子に対する面当てのつもりでもあった。
 「なっ、ヨーコよ。今度二人で一緒に飲みに行こうか」
 「えっ、ウーちゃんと二人っきりで行くの。嬉しい。連れてって」分厚いほっぺたを和紀の薄い胸に押しつけてきた。強い化粧の匂いが鼻孔の奥を刺激した。
 「その代わりな、下着を着けてこないことが条件や、できるか?」
 自分に従順なヨーコに、出来そうもないことを言ってみて、自分の力を誇示したかった。しばらくモジモジしていたヨーコは、
 「ウーちゃんと二人っきりで行けるなら、やってみます。約束します」
 少女のような恥じらいを込めたか細い声で答えていた。
 (ざまーみやがれ)誰に言うともなく、勝ち誇ったような気分になって、悦に入った。
 「そんなら、オッパイ揉ませろ」
 それにもヨーコは静かに和紀の手を自分の胸に導いた。
 次々と和紀の言葉を受け入れるヨーコに、笑いが自然にこみ上げてきて、酔いに乱れる思考のなかで、玲子への憎悪が湧きだすのを覚えていた。