酔   い   ど   れ   記

(七)


 次の日の昼に、ヨーコは和紀の仕事場まで車で迎えにきた。
 大柄なヨーコに、軽ワゴンは不釣り合いで、色もグリーンと和紀の趣味とはかけはなれていて、センスの無さにうんざりとする。
 「酒屋寄ってな、ビール買えよ。夕べ遅かったから頭、がんがんするわ。
  それ飲んで少し元気出すわ」
 「うん、わかった。それで何処へ行くの?行く場所だけ教えて」
 「何処でもいい。何処でもいいから、ずうっと遠いところや」
 「遠いところやって言われても……」
 「あっ、そうや、お前下着、着けて来てないやろな」
 「恥ずかしい、何言うの。約束でしょ」
 「よぉーし、遠いところ行け。遠いところ、隣の県でもいいから」
 「うん、わかった」
 ヨーコは途中酒屋へ寄って、缶ビールを買うと高速のインターへ向けて車を走らせた。車内はむせかえるような、化粧の匂いがする。タックを指で弾くと、麦の匂いが鼻を突いた。
 それらが相まって、和紀は胸のむかつきを感じたが、かまわず飲み下した。突き上げてくる吐き気に抗って、懸命に飲み下した。胃のなかでは、発泡した空気の行き場所がなく、鳩尾の辺りがえぐられるように痛みはじめた。
 暫くそれに耐えていると、腹のなかが次第に温かくなってきて、酔いも戻ってきた。
 ほー、と長い息を吐き出すと、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んでいく。普段から焼酎を飲んでいる和紀には、まるでお茶を飲むようなものでしかない。
 三本目までくると、酔いは不快なものとなってきた。
 頭が痛み、焦点が合わなくなり、グルグルと周りが回り始めてきた。
 シートを倒して和紀は目をつぶる。目をつぶりながら身体の位置を何度となく探す。
 「ウーちゃん。気分でも悪いの?」
 ヨーコの問いには応えず目をつぶりつづけた。
 けだるい午後の陽射しが車内を包み、単調な道路は何処までも白く続いている。
 (来なければよかった…)
 物言わずシートに横たわる和紀を見ると、迎えに行った時の怪しげな期待感も薄れて、ヨーコの気持ちは次第に沈んだものとなっていた。
 子供たちのことがふと頭に浮かぶと迷いが生じて、アクセルも不規則になりはじめていた。
 和紀は夢を見ていた。サイレンを鳴らしたパトカーが近づき、遠くから救急車の音も聞こえてくる。
 緑色のワゴン車は横倒しになり、運転していたヨーコは頭から血を流して目を閉じている。その血がアスファルトにも滲んで、幾らか黒ずんでいるの見ると、全身に震えが来た。
 警察官の叫ぶように呼びかける声と、激しく吹き鳴らされる笛の音に、夢ではないことが漸く理解できた。

 傷ひとつない和紀に比べ、頭に包帯を巻いたヨーコの姿は、唇も紫で、まだ醒めやらぬ恐怖に顔面は蒼白で痛々しかった。
 ヨーコも幸いに外傷だけで、二三日で退院できるようであったが、知らせで駆けつけた母親らしい女が、二人の子供を連れてきていたので、和紀は逃げるようにその場を後にした。
 ヨーコの居眠りが原因で、緩い切り通しのカーブを曲がり切れずに、土手に乗り上げて横倒しとなったらしい。
 酔い戻しの酒をと思ってスナックに行くと、正ちゃんがいた。正ちゃんは、酔いのために刷毛で掃いたようにのっぺりとした顔をして、和紀を見ると薄笑いを浮かべた。
 「ウーの字。事故やったてな。お前何ともなかったのか」
 ねめまわすように下から上へ嫌な目つきで眺めると、ヘッヘッへと奇妙な笑い声を立てた。
 「ママは?」
 「俺に店任せて、ヨーコの見舞いに行った。入れ違いやろ」
 そう言うと、コップの底を啜るように高く持ち上げて焼酎のロックを飲んだ。
 「どれ、お客さんにも俺と同じもん、作って差し上げようか」と言いながら、
 正ちゃんはカウンターの中に入った。正ちゃんの作ってくれた強めのロックを三口位で飲み干すと、
 「今日は帰るわ」言い残して外に出た。
 何か言いたそうな正ちゃんが判ったが、ママが見舞いから帰って来て、あれこれと問いなおされるのが億劫な上に、それが少し怖い気もした。

 家に帰ると、それまで千明の遊び相手をしていた玲子が、急に声を低くした。
 重苦しい空気が漂うのを感じた。  「晩御飯、どうするの」感情を押し殺して言う。
 玲子には応えず、千明の頭をひと撫ですると、布団を出し、頭から被って寝入った。
 胃に入るのは酒ばかりで、力が出なく身体全体がだるく、考えることも億劫だった。
 「ウーちゃん。帰り船歌って」「おうーウーの字。帰り船。帰り船」
 ママとヤンペイ先生に言われて、和紀は直立不動になって歌いはじめた。
 ここでは、それぞれに持ち歌があって、和紀の帰り船、ヤンペイ先生の無法松、チックさんのバラが咲いた等で、マエさんが一番レパートリーも広く、上手だった。
 そこに久し振りに奥さんを連れた、薬局の岡ちゃんがやってきて、皆も奥さんを呼んで盛り上がろうということになった。和紀も玲子がこのスナックを嫌っていることを知っているので、たいがいは生返事をしていたが、それぞれの奥さん達が来て、奥さん達どうしでも親しく話をしているのを見て、羨ましくなって叱るようにして玲子を呼びつけた。
 来た迄はいいが、何も頼まず、何も話さず鼻白らんでいる玲子に皆は気をつかって話かけたが、曖昧な返事をするので、二人は浮いてしまっていた。
 ヤンペイ先生の歌の途中で、甲高い泣き声がしてドアベルが力なく揺れた。
 歌うのをやめ、話すのをやめた皆の視線が集まるなかに、パジャマ姿で泣きじゃくる 千明の姿があった。
 「千明!千明」玲子は、飛んで行って千明を抱き上げた。
 千明のパジャマの膝の辺りと肘に、湿って黒い土がついている。
 路地の砂利道で、慌てる余りに転んだらしい。用水に落ちなくてよかった。
 「千明ちゃん、こっちにいらっしゃい。おばちゃんがジュース作ってあげ……」
 ママが取りなす間もなく、玲子が千明を隠すようにして、ドアの向こうに姿を消した。
 ふうーっといった、緊張から解き放たれた安堵感が漂い、再び歌が始まったが、どことなく盛り上がりに欠けて雰囲気はぎこちなかった。
 皆の手前もあり、帰るのを躊躇っている和紀に
 「ウーちゃん、帰ってもいいのょ。帰ったら」ママが小さな声で助け船を出してくれた。
 「うん。そうしようか」平静を装おうとしたが、その場のことよりも、帰ってからの 玲子とのいさかいが気になって、膝に力が入らなかった。
 案の定、玲子は激しく和紀を叱責しはじめた。
 「分かったよ。酒なんかやめればいいんだろ。やめれば」
 「やめればいいわよ。やめれば。でも、出来ないでしょうが」
 「あんた何遍それ言って酒飲んでると思っているのよ」
 「千明を可哀相な目にあわせるこんな酒なんか……」
 そう言って、テレビの脇の焼酎の瓶を持ち上げると、庭に向かって投げつけようとするのを、和紀がそれをもぎ取って、自らが庭の敷石に叩きつけた。
 続けて台所に廻ると、買いだめてあった二本も、叩き割った。
 夏の深い闇のなかに、虫の声は途切れ、強い酒の匂いが漂った。
 玲子に言われずとも、自分でもこんな生活から、区切りをつけたかった。
 ヨーコも、あの事故を切っ掛けに、和紀を避けるようになっていたし、払いを充分にしないせいか、ママの時折見せる態度も気になり始めていた。
 毎日が暗く、頭痛からは開放されることはなく、体が重い。毎朝の用便は必ず下痢で、用足しが終わるとヒリヒリと痛む。歯磨きをすると嘔吐するので、もう何ヵ月も歯を磨いたことはない。
 浅い眠りから目覚めると、朝の光のなかで、四方に散らばった鋭利なガラスの破片が目に入る。物の腐ったような臭いが鼻孔を突き上げてくる。まだるっこい目と鈍い頭には、強い刺激だ。
 慌ててトイレに駆け込んで、ひとしきり吐きつづけた。
 放心状態で、力なく便器を抱くように俯いている和紀の姿は、人の姿というよりは、最早、鬼か畜生の化身のようにも見えた。
 真夏の朝日が、狭いトイレの温度を一気に押し上げた。
 涙と、涎と、そして酒にまみれた汗がひと雫………。