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ヴェスタリオミア物語

最終章(0)

-あるいは第一主題へのひとつの解釈-

 
 
 
 
 

この世界でもっともネガティブな概念は、“天国”というものだろう。それは全

ての状態の静止であり、永遠の停滞であり、可能性の消失である。多様性は、笑

顔の元に否定される。全てのものが一方向にのみ向かっている状態は、それがど

れほどポジティブな方向であったとしても、既に終焉を内包している。
 
 
 
 

それと対極にある存在が、生命である。誕生や死に代表される、生命の織りなす

ドラマは変化に富み、常に躍動に満ち満ちている。その姿は決して美しさばかり

でなく、醜さをも誇り高く主張する。この生命のダイナミズムを一言で形容する

とすれば、“地獄”こそが相応しい。なぜならそこは、闘争の世界だからだ。
 
 
 
 

人は“天国”を思う時、幸福のイメージにばかり目を奪われて、その幸福がどの

ように生まれ、どのように支えられるかについては、ほとんど気にしなくなる。

それはまるで、映画の名場面に見とれる観客のようだ。しかし名場面だけを継ぎ

合わせても、それは映画にさえならない。
 
 
 
 

幸福と幸福の間に省略されているもの、それが闘争である。生命の、生命による

闘争である。例えば、一人の赤ん坊が生まれるまでには、細胞のレベルで、家庭

のレベルで、社会のレベルで、必死の闘争が無数に繰り広げられている。そして

そのうちのどれひとつが欠けても、赤ん坊は生まれてくることができないのだ。
 
 
 
 

全てのものは、闘争の結果として“地獄”から生まれてくる。愛や喜びや幸福さ

えも、“地獄”から生まれてくる。さらに、この“地獄”は闘争という躍動に支

えられて、調和を保っている。調和もまたダイナミズムであって、闘争がなくな

れば調和も消滅することを、生命自体が証明しながら生きているのである。
 
 
 
 

もしも“天国”があるとすれば、そこには闘争がない。従って、調和もなければ

何も生まれてこない。幸福と名付けられた虚無が、何の躍動もなく、ただそこに

あるだけに過ぎない。わずかでも闘争があるなら、それは“地獄”の端っこに属

するのであって、“天国”とは呼べない。
 
 
 
 

しかし、たとえ“天国”が虚無でしかなくても、人はそれを追い求めるのだ。永

遠に変わらない理想郷、あるいは理想に到達したいと願う。もっともネガティブ

な概念に、最高のポジティブさで近づこうとする。終焉へと続くこのような行為

もまた、限りなく愛しい、生命の闘争なのだろうか・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 

今、ヴェスタリオミアの人々は“天国”を目指して動き出してる。エミィにはそ

う感じられた。この星全体が一点に向かって集約しつつある。そして、その一点

は未来への躍動ではなく、終焉への静寂を予感させた。
 
 
 
 

モス・アレス老の言葉に従って、ここメアラスの中心の島、コルウァにやってき

たエミィだったが、こうして大石柱の根元に立っていると、エスタミスでレジア

やカティナと一緒に初めて大石柱を見た時のことが、まるで昨日のことのように

思い出される。今やエスタミスは大石柱を残して廃墟と化し、ランテルス教授一

家も教授の故郷のロステムスに移り住んだ。あれから今日までのことが、エミィ

の脳裏を駆け抜けていく・・・。
 
 
 
 

長引く気配を見せ始めた世界戦争や、人々が希望を託した指導者アーク・レクの

失踪、レクの後継者モルシェルト・ディの突然の死。ヴェスタリオミア全体を重

苦しい空気が覆っていた。人々は出口の見えない凄惨な争いから解放されたいと

願い、ヴァウライ大石柱に奇跡を祈った。奇跡とはすなわち、古代アルティメア

王朝の復活である。
 
 
 
 

それを願わずにはいられないくらい、世界中が狂気の様相を呈し始めていた。戦

場には史上初めて大量殺戮兵器が投入され、街にはこれまで見られなかったよう

な陰湿な犯罪が横行していた。あまりにも急速に崩壊していく秩序を呆然と見つ

めながら、誰もが世界の終わりだと囁き合った。そして、レアナレスに記された

「世界の終焉が訪れし時、大石柱と3つの月はその真実を空に顕わし、かの聖な

る力によりて、王朝は大いなる栄光を取り戻さん。もって万人は救われるであろ

う・・・」という予言めいた一文に、人々はすがりついていった。
 
 
 
 

しかしそれは、エミィの目にはとても奇異な現象に映った。ほんの3ヶ月前まで

は、レアナレスなど単なる神話に過ぎないと笑っていた人々までが、今では夢を

見るような表情で祈りを捧げているのだ。人々の心はもはや、レアナレスによる

救済という希望に支配されていると言っていい状態だった。
 
 
 
 

エミィはエスタミス陥落後、この3ヶ月の間、旅人としてこの星の激動の中に身

を置いていた。そして、人々の変化を肌で感じ取っていた。旅の途中で出会った

人々や出来事を思い返してみると、たくさんの生命の糸で織られていく一反の織

物が、暖色から寒色へと、急激にその色彩を変化させているように感じられた。
 
 
 
 

エミィはじっと目を閉じて、頭の中を整理してみる。
 
 
 
 

いろんな人に巡り会った。たくさんの友達ができた。死んでいった人、新しく生

まれた生命。森や、この星自身とも話をした。あたしのこと、“運命の急流をせ

き止める最後の希望”って言ってたよね・・・。その意味は、まだわからないけ

れど、今のこの星の状況と何か関係があるのだろうか。森も星も、詳しいことは

何も教えてはくれなかった。でも・・・。
 
 
 
 

あたしがテレパスだからだろうか、この星の上にいる自分とは別に、もう一人の

あたしを感じることがある。そのあたしは、宇宙からこの星を見下ろしていて、

バラバラに起きているように見える出来事が、ひとつの大きな流れに束ねられて

いくのを、まるで傍観者みたいに観察しているんだ。きっと、この大きな流れの

ことだよね、“運命の急流”って・・・。
 
 
 
 

宇宙空間を漂う自分のイメージを感じながら、この星の上の出来事は全て、夢の

中で起きているのではないかとさえ思えてくる。そう、全てが夢だったら、どん

なに良かったか・・・。エミィは突然、胸がギュッと締め付けられるような感覚

に襲われた。そして、心の奥に封印してあった熱い想いが、もう耐えきれないと

でも言うように、次から次へと溢れ出してきた。
 
 
 
 

「アリム・・・。」
 
 
 
 

思い出したくない、悲しい出来事。アリムが来てくれたのに。あたしを捜すため

に、この星に来てくれたのに。1週間もの間、あたしたちはこの同じ星の上にい

たのに。ホントに一足違いだった。アリムは、行ってしまった。アリムを乗せた

シャトルが小さくなっていくのを、あたしは泣き叫びながら見送るしかなかった

んだ。どんなに声を振り絞って叫んでも、ちぎれるくらい手を振っても、心を飛

ばしても、シャトルは戻ってきてはくれなかった。ぐんぐん、ぐんぐん、アリム

をあたしから引き離していった、純白のシャトル・・・。
 
 
 
 

教授の観測によれば、それまでヴェスタリオミアの衛星軌道の外側にハッキリと

見えていた「ノア2」の姿も、シャトルが飛び立ってから数時間後には消えてし

まっていた。よほど慌てて出発しなければならなかったんだね・・・。
 
 
 
 

あれから、1ヶ月以上たってしまった。地球の時間にして、10ヶ月近くが経過

したことになる。この星の時間の中にいるとよくわからなくなるけど、あたしが

この星に来てから、地球の時間で2年以上にもなるんだな・・・。
 
 
 
 

もしも、アリムがあたしを探してくれてるってことを、もう数分だけ早く教えて

もらえていたら。あたしの足がもっと速く走ることができたら。もう少し、あと

ほんの何十秒か早くシャトルのところに着いていれば。アリムに会えたのに。ア

リムの胸に飛び込めたのに。もう一人のあたしがホントのあたしで、そのまま宇

宙を飛んでいけたら・・・!
 
 
 
 

既にあの時、体中の水分がなくなるほど泣いたはずなのに、あとからあとから涙

が溢れ出してくる。エミィはズズズ、と鼻をすすり上げると、両手でグイグイと

涙を拭った。そして、キッと空を見上げて歯を食いしばる。
 
 
 
 

あたしは、信じてる。あの時のあたしの叫びは、絶対アリムに届いてる。一生懸

命飛ばし続けた心は、届いているに決まってる。たぶん何かの理由で、引き返す

ことが不可能だっただけ。だって、あたしにはハッキリと、アリムの声が聞こえ

たんだもん。“待ってろよ”って、聞こえたんだもん。だから、アリムがあたし

を捜しに来てくれるその日まで、頑張るって決めたんだ!たとえ何年たったとし

ても、あたしは信じてる。信じて、待ってるんだから!
 
 
 
 
 
 
 
 

それからエミィは、大石柱の根元である巨大な壁面を、掌で優しく2、3回撫で

てみた。その表面はエスタミスのものと同じように、冷たく乾いて、ザラザラし

ていた。ただひとつだけ違うことは、ところどころに「レアナレス」と呼ばれる

文字群が刻み込まれていることだった。
 
 
 
 

その文字を見つめていると、ふと懐かしい記憶が呼び起こされた。エスタミスの

大石柱にレジアが子供の頃に刻んだという、あのイタズラの傷。一瞬、エミィは

笑顔を浮かべたけれど、次の瞬間、エスタミスが陥落したあの日の恐怖が蘇って

きて、エミィは自分を抱きしめながら震えた。懐かしく暖かい記憶は、そのまま

戦乱の忌まわしい現実につながってしまうのだった。
 
 
 
 

レアナレスの文字たちが、今この星の人々の運命を、大きく大きく揺さぶろうと

している。エミィはそう思うと、文字のひとつひとつが不気味な笑いを漏らして

いるようにさえ感じられた。
 
 
 
 

モス様は、ここに来れば全ての謎が解ける、そう言っていたけれど、それはこの

レアナレスを、あたしに読めってことなのだろうか・・・。いくら何でも、古代

アルティメア語なんて、あたしに読めるとは思えない。もし仮に、読めたところ

で、ヴィ様(=ヴィットリ・ロステムス。ロステムス王国皇太子で、レアナレス

解読に取り組む考古学者。)でさえ解読しきれない難解な内容を、あたしが理解

できるはずもないだろう。
 
 
 
 

どうすれば次のステップに進めるのか、あたしにはわからない・・・。
 
 
 
 

ただ、今まで感じたことがないくらい、胸がドキドキする。何か、とても嫌なこ

とが起きるって、あたしの全身が警報を鳴らしてる。ここで、何かが起きて、何

かが変わる。そのことだけはハッキリと確信できる。そして、そのためにあたし

はもうすぐ、誰かと会わなければならない。そんな予感がする・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 

この星に来てから、森や星との交流をきっかけにして、エミィの精神感応力は急

速に、そして複雑に進化し続けているようだった。予感めいたものを感覚する事

さえも、少なくはなかった。それは、理性を中心とする地球人類の認識システム

から、感性を中心とするヴェスタリオミア人類の認識システムへと、エミィの内

面が変化しつつあることを表していた。

 
 
 
 

ヴェスタリオミア人類の認識の仕方は、一言で言うと、感性による感覚の統合と

昇華、ということになる。もちろん認識されたものを理性によって翻訳する場合

もあるのだけれど、その過程はむしろ補助的であった。
 
 
 
 

彼らの感性を中心とする認識の仕方は、特にその“時間覚”の中によく現れてい

ると言える。彼らは、ある種の時間的な振幅を持ったものとして、対象を認識し

ているらしかった。しかも、その振幅は曖昧なものとして、無意識のうちに感じ

取られていた。
 
 
 
 

例えば花瓶は、現在の直前の状態と、現在の状態と、現在の直後の状態という3

つの状態が連続した、“花瓶的なもの”として捉えられる。すると、この“花瓶

的なもの”には時間覚の上で、縦方向と横方向の振幅が生まれる。
 
 
 
 

まず、縦方向の振幅について見てみよう。
 
 
 
 

これは、一瞬の中に過去と現在が同居することによるもので、主に五感に影響を

与える。ものの形、音、匂い、味、触感は、曖昧に揺らめいて感覚される。花瓶

を見る時にも、極端に表現してみれば、「“花瓶的なもの”が、その辺りにある

らしい。」という捉え方になる。
 
 
 
 

境界線が滲んでボヤけている、あるいは境界線が振動している、とも表現できる

かもしれない。もっとも、現在の直前の状態と現在の状態とが全く一致している

場合には、境界線がボヤけることはないのだが、過去と現在が全く一致すること

などこの世にはあり得ない。
 
 
 
 

そんな曖昧な認識の仕方で、生活に支障を来さないのかと思われるかもしれない

が、彼らは最初からこのような認識に基づいて生活を組み立てているし、神経系

の反応などもこの認識方法に適応しているので、問題はないのである。
 
 
 
 

ところで、今度は五感を無視して、純粋に時間覚だけに注目すると、さっき感じ

ていた“花瓶的なもの”と、今感じている“花瓶的なもの”とは、連続してはい

るけれども、時間的な濃淡が異なっている。そのような時間的な濃淡をたどって

いってみると、花瓶の原料になっているある種の土は、時間覚の上では、非常に

淡い色合いの“花瓶的なもの”であることがわかるだろう。
 
 
 
 

しかし、土は“花瓶的なもの”ばかりではなく、その他にもいろいろな“〜的な

もの”に連なる、時間的な濃淡を持っていて、それらの色合いの複合体として存

在しているはずである。
 
 
 
 

また、土の方から見れば、花瓶は“土的なもの”とも言える。すなわち、花瓶は

土という接点を通して、その他のいろいろな“〜的なもの”と、時間覚の上では

つながっていて、それらと近い色合いを持っている。
 
 
 
 

これを俗な表現に直すと、「同じ土から生まれた兄弟」というようになる。
 
 
 
 

さらに花瓶は、大昔に倒れて腐り、今は土となった巨木と、遙かなる時間的濃度

勾配の上では同じ系列に連なるかもしれない。
 
 
 
 

このように全てのものは、時間覚の上ではひと続きの大地であって、それぞれの

違い、例えば花瓶とコップとの違いは、同じ大地の上の大小の起伏のようなもの

である。だから、ひとつひとつを区別して分類することには、生活の便宜上そう

しているだけで、あまり大きな意味はなかった。
 
 
 
 

次に、横方向の振幅について見てみる。
 
 
 
 

これは、“〜的なもの”の中に「現在の直後の状態」が含まれていることによる

もので、対象を固定的に捉えることを不可能にしている。つまり花瓶を見る時の

認識の仕方は、無理矢理言葉にしてみるならば、「次の瞬間にはそのままかもし

れないし、あるいは壊れてしまうかもしれない“花瓶的なもの”が、その辺りに

あるらしい。」ということになる。
 
 
 
 

純粋な時間覚の上では、「現在の直後の状態」の中には、確率的に存在しうる全

ての状態が含まれる。“花瓶的なもの”は、そのままの状態を維持するかもしれ

ないし、汚れるかもしれないし、ひび割れるかもしれないし、完全に砕け散るか

もしれないし、そういった現実的なありとあらゆる可能性が、一瞬の中にスープ

状になって存在している。
 
 
 
 

このスープの味、つまり“花瓶的なもの”の「直後の状態」は、可能性の高いも

のを主な味の決め手とし、可能性の低いものを隠し味として、味覚と同じような

感覚で認識される。「複雑化した予感」、あるいは単に「印象」とも呼べるかも

しれない。
 
 
 
 

そしてスープに溶け込んでいる中身は、瞬間瞬間にどんどん変化していく。その

様子は、“花瓶的なもの”が未来との接触面において新陳代謝している、と表現

できるほどに激しい。
 
 
 
 

この時間覚における横方向の振幅、つまり可能性の振幅を感じることで、認識の

対象は常に変動し、躍動しているということがわかる。花瓶の例で言えば、実際

にそう見えるわけではないけれど、まるで「花瓶が踊っている」ように感じられ

るのである。
 
 
 
 

以上のような縦と横の振幅を同時に、一瞬にして感じ取るのが時間覚だ。実際に

はここで説明したことは、彼らの意識に形として現れることはない。全てが無意

識のうちに、「なんとなく感じられること」なのである。
 
 
 
 

地球人類はこのようなことを、理性や知識の助けを借りて、一応理解することは

できるかもしれない。しかしそれは単なる理解であって、それ以上のものではな

いだろう。無意識のうちに感じるということが、重要なのである。
 
 
 
 

それに対してヴェスタリオミア人類は、本能的に時間覚を感じ、理性を介入させ

る必要なしに行動に結びつけていた。
 
 
 
 

別の表現をすれば、「なんとなく感じられること」の大切さを、彼らは本能的に

知っていて、生活の中で自然に実践していた、ということだ。
 
 
 
 

理性を中心とした認識を繰り返していると、感性の「なんとなく感じる」という

認識能力は衰えていってしまう。そして、衰えて錆び付いた感性では、感じ取ら

れた内容をそのまま受け入れるのは危険と言わざるを得ない。しかし、鍛えられ

洗練された感性の力というものは、理性を遙かに凌駕する認識を、「なんとなく

感じる」という形で与えてくれるのである。
 
 
 
 

エミィはテレパスではあるけれど、認識には理性による翻訳を必要とした。認識

された対象は、意識の上に何らかの形を以て表される必要があった。けれど、最

近のエミィは、意識に上らない曖昧な感覚を、積極的に受け入れられるようにな

ってきていた。「なんとなく、そんな感じ。」という認識の仕方が、とても自然

であるように思えた。それ以上、厳密に理性の枠をはめると、かえって対象のホ

ントの姿をゆがめてしまうような気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

とにかく、エミィの感覚は以前とは違う形で、ますます研ぎ澄まされていたので

ある。その予感は、曖昧ではあるけれども、大地のように揺るぎない安定感を持

って、エミィの心に迫ってきた。
 
 
 
 

エミィは心を落ち着けるために、深呼吸してみる。
 
 

「すう〜、はぁぁぁ・・・。」
 
 

何度目かの深呼吸の時、急に周りの空気が変化したように感じられて、エミィは

何気なく振り向いてみた。すると、そこには意外な人物が立っていた。
 
 

「リ、リーナ・・・?」
 
 

「お久しぶり、エミィ。」
 
 
 
 

リーナはヴェスタリオミアの5月の陽射しの中で、柔らかい微笑みを全身にまと

うようにして、たたずんでいた。その姿は、この薄暗い時代に舞い降りてきた春

の妖精のように見えた。エミィの心には一瞬にして、幸せな温もりと、ふっくら

とした安心感が広がっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

意外ではあったけれど、リーナに会えたこと自体が、エミィには嬉しくてたまら

なかった。どんな悪漢が登場するのかと不安だった心は、今や落ち着きと幸福感

に満たされていた。
 
 
 
 

この戦乱の最中にあってさえ、愛するエルメ・アレクを追いかけて世界中を飛び

回っていたリーナ。超絶的な力とその血筋ゆえに、様々なトラブルに巻き込まれ

てしまっても、決して挫けなかったリーナ。エミィはリーナといるだけで、あら

ゆる不幸を忘れてしまえるような気持ちにさえなる。
 
 
 
 

確かに、ランテルス教授の言うように、リーナが相手に与える安心感や幸福感は

大きすぎるような気はする。しかも、相手が誰であってもそうなのだから、教授

が「ありゃあ、尋常やないでぇ。ほとんど麻薬みたいもんやからなぁ。」と言っ

て警戒するのも、理解できないわけではない。
 
 
 
 

しかしそれでも、エミィはリーナが大好きだった。リーナの心の奥に相変わらず

存在している影の部分を、ほとんど感じなくなるくらいに、リーナのことが大好

きだったのである。
 
 
 
 

「リーナ、あれからどうしてたの?エルメは、元気になった?」
 
 
 
 

アーク・レクが失踪し、モルシェルト・ディが死んでからも、エルメはコーダ連

邦を支えていくために、首相アッサム・ケートと共に忙しい日々を送っているは

ずだった。表面上はいつもと変わらない陽気なエルメであったが、二人の指導者

を、いや、二人の親友を短期間に相次いで失った悲しみは、エルメの心と体を痛

めつけていた。
 
 
 
 

そんなエルメをサポートするために、リーナは避難するエミィたちと別れて、今

は戦場と化してしまったコーダ連邦に残ったのである。リーナの服は砂埃にまみ

れて、ところどころ穴が空いていた。あれほど色白だった顔は、日焼けと汚れで

少し黒ずんで見えた。手はあかぎれて、マメの痕が痛々しかった。
 
 
 
 

それでも、リーナの美しさ、愛らしさは少しも損なわれてはいない。はにかむよ

うに微笑みながら話す様子は、むしろ以前のリーナよりも魅力的に感じられた。
 
 
 
 

「ええ、いろいろあったけれど・・・。エルは、まだコーダで戦っているわ。ホ

 ントはね、どこか安全なところに、一緒に逃げて欲しかったのだけれど、ダメ

 だった・・・。彼は世界に5人しかいない、アルティ・ナイトだものね。逃げ

 てとは、言えなかったの・・・。」
 
 
 
 

こんな悲しいことを、なぜ微笑んで話したりできるのか、エミィにはわからなか

った。ただその微笑みは、とても切ないと思う。胸が締め付けられるのを振り払

うように、エミィは元気な声を出した。
 
 
 
 

「大丈夫だよ、リーナ。こんな戦争、もうすぐ終わるに決まってる。ね、それよ

 りさ。なんでこんなところにいるの?まさかリーナがいると思わなくって、ホ

 ントにびっくりしたよぉ。避難先にしては、ちょっと変わってるし・・・。」
 
 

「ええと、ね。なんて言うのか、わたくしには、やらなければならない大事なこ

 とがあるから・・・。」
 
 

「大事なこと?」
 
 

「ええ。とても、大事なこと・・・。」
 
 
 
 

そう言うと、リーナは初めて、悲しそうな表情を見せた。エミィの心には、絶望

的な悲壮感とでも呼べるような、深い深い寒色系の炎が流れ込んでくる。愛する

ものと別れて、何かを成し遂げなければならない、そんなふうにも翻訳できそう

だったけれど、エミィは変換するのをためらった。
 
 
 
 

「今まではわがままを言って、少しずつ引き延ばしてきたの・・・。だけど、も

 うこれ以上遅らせることはできないのよ・・・。全て、わたくしの責任なのだ

 から・・・。」
 
 

「責任・・・?」
 
 
 
 

一瞬、引き締まった表情を見せたけれど、すぐにいつもの柔らかい笑顔を取り戻

したリーナは、エミィの横をすり抜けて、大石柱の壁面にもたれかかった。
 
 
 
 

「エミィこそ、どうしてここにいるのかしら?」
 
 

「あたしは、モス様に言われて。」
 
 

「モス様に・・・?」
 
 
 
 

エミィは、リーナと別れてからこれまでの2週間に起きたことなどを、かいつま

んで説明していった。そして、レアナレスや大石柱などの全ての謎を解き、世界

の混乱を修復するための鍵は、ここコルウァにあるとモス・アレス老に教えられ

たことを、最後に話した。
 
 
 
 

「そう、モス様が・・・。」
 
 
 
 

リーナは何かを思い悩むような表情を浮かべて、数分の間、黙って地面に視線を

落としていた。それから、思い切ったように顔を上げると、エミィの手を取って

言った。
 
 
 
 

「エミィ、一緒に来て。あなたには、ホントのことを知ってもらわなければなら

 ないみたいだから・・・。」
 
 
 
 
 
 
 
 

エミィはリーナに連れられて、大石柱の周囲を半周した。すると目の前に、風景

から妙に浮き上がって見える、真っ黒い建物が現れた。2階建てで、入り口の扉

には「レアナレス保存委員会・“精神内遺伝波動”研究所」と書かれた、古びた

金属板が貼り付けられている。
 
 
 
 

リーナは入り口の前で立ち止まると、何事か短い単語を呟きながら、掌を扉に押

しあてる。すると、扉だったはずの部分が鏡に変化し、表面が液体のように波立

ち始めた。この星に来て以来いろんな経験をして、たいていのことには驚かなく

なっているエミィだったけれど、この光景には何か、不気味なものを感じずには

いられなかった。
 
 
 
 

「さ、入って、エミィ。」
 
 
 
 

そう言いながら、リーナはエミィの手を引いて鏡を通り抜けていく。手を引かれ

るがままに鏡に接触したエミィは、通り抜ける瞬間、軽いめまいを覚えた。
 
 
 
 

完全に通り抜けてから振り返ると、そこはただの真っ黒な壁で、どこにも入り口

らしき跡はなかった。エミィはめまいと気味悪さで、よろけて転びそうになる。
 
 
 
 

「エ、エミィ・・・!大丈夫!?」
 
 
 
 

危うく転ぶ寸前、エミィはリーナに体を支えられた。
 
 
 
 

「ごめんなさいね、ここ、初めて通る人はみんな、気分が悪くなるの。位相転換

 の影響かもしれないんだけど、うまく調整できなくて・・・。」
 
 
 
 

そう説明されても、エミィには何のことか全くわからなかったけれど、なんとか

数分もすると、気分の悪さも回復して、普通に歩けるようになった。
 
 
 
 

外から見たときには2階建てだったはずなのに、この建物の内部には、恐ろしく

天井の高い、板張りの長い廊下以外、何もなかった。照明は太陽光に近く、温度

は外よりも少し高いようだった。リーナについて歩いていくと、ようやく一番奥

に部屋の入り口らしい扉が見えて、エミィはホッとすると同時に、さっきの入り

口の嫌な感覚を思い出して、小さく身震いした。
 
 
 
 

「さあ、エミィ。この部屋よ。あなたに見せたいものがあるの。」
 
 
 
 

そう言ってからリーナは、イタズラっぽく笑って付け加えた。
 
 
 
 

「大丈夫、心配しないで。ここは、普通のドアだから。」
 
 
 
 

部屋の中に入ってみると、全面が透明な壁で、温室の中にいるようだった。周囲

は深い森の中で、なんだかエスタミスを取り巻いていた、あの“森”に似た雰囲

気が感じられる。
 
 
 
 

「そうよ、エミィ。この子は、あの森の子供なの。」
 
 
 
 

リーナは愛おしげに森の奥の方を見つめながら、そう教えてくれた。森が燃えて

いくのを、ただ見つめていることしかできなかったあの日の悲しさ、悔しさを思

い出して、エミィは胸が熱くなる。
 
 
 
 

「リーナ、ありがとう・・・。あたしに見せたかったものって、この子のことな

 んだね・・・。」
 
 

「ええ、この子は、見せたかったもののひとつ目。でも、もっとあなたに見ても

 らわなければならないものがあるの。」
 
 
 
 

部屋の中には、ポツンとひとつだけテーブルが置かれている。厚くて丈夫そうな

木材を使用した、どっしりした構えの正6角形のテーブルで、上には複雑な形を

した物体が置いてあったけれど、それがどんな性質のものなのか、エミィには見

当もつかなかった。
 
 
 
 

「ねぇ、リーナ。もっとあたしに見せたいものって、何なの?」
 
 

「それを見せる前にね、エミィ、あなたに知っておいてもらいたいことが、あり

 ます。」
 
 
 
 

リーナは少し真剣な表情になって、エミィの瞳を真っ直ぐに見つめている。何か

が始まる予兆を感じながら、エミィはその視線を受け止めて、無言で頷いた。
 
 
 
 

「それはね、言葉、ということなの。」
 
 

「言葉・・・?」
 
 
 
 
 
 
 
 

森の方からは、くすぐったいような木漏れ日が、部屋の奥まで射し込んできてい

た。こうしてリーナの次の一言を待っているエミィは、なんとなくレジアの講義

を思い出して、懐かしかった。
 
 
 
 

「そう、言葉。具体的に言うと、言葉のホントの姿や、言葉の持ってる力につい

 て、かしら・・・。」
 
 

「言葉の、力・・・。」
 
 
 
 

今ひとつピンとこないという顔をしているエミィを見て、リーナは困ったように

小さく微笑む。
 
 
 
 

「エミィ、言葉って、何だと思う?」
 
 

「言葉・・・。」
 
 

「そう、言葉。私たちがコミュニケーションに使っているものも、言葉よね。い

 ろいろなものを書き残したり記録したりする時に使うのも、言葉。」
 
 

「うん。」
 
 

「でもね、私たちが知ってる言葉なんて、ホントの言葉の中の、ほんの一部分で

 しかないの・・・。」
 
 
 
 

ホントの言葉、かぁ・・・。
 
 
 
 

エミィはリーナの説明を聞きながら、“生命会議”の場でこの星と話した時のこ

とを思い出していた。あの時の感動が、エミィの中にハッキリと蘇ってくる。
 
 
 
 

もともと、星は言葉を知っている。というより、言葉自体が星から生まれた存在

なのだと、星は言っていた。言葉だけじゃない。生命をはじめ、星にあるものは

みんな、星という水源から滲み出した水滴の一粒一粒。森も人間も雲も石も、全

てが兄弟みたいなもの。だから、自然界の中の、例えば石の表面なんかに文字や

顔に似たシミがあるのを見て、それが不思議でおかしなものだと感じるのは、人

間の傲慢なのかもしれない。
 
 
 
 

言葉っていうのは、全て自分たちが創り出したものなのだと、人間は自惚れてい

るような気がする。
 
 
 
 

もちろん、雲やシミが時に文字や顔のように見える現象は、人間の認識システム

と想像力との相互作用で説明されている。「ライトスタッフ」の講義で教わった

ことだから、たぶん確かなことだ。
 
 
 
 

だけど、それはそれとして、雲やシミそれ自体が、言葉の一種だってことに気づ

いている人は、少ないんじゃないかな・・・。
 
 
 
 

自然界には様々な形の言葉が溢れている。目に見えるものも、目には見えないも

のも、形があれば、それは全てが言葉なんだ。ほとんど無限に近いそれらの言葉

の中で、人間がそれを言葉だと認識して利用することができているものは、ほん

のわずかな種類に過ぎないだろう。
 
 
 
 

「わかるかしら、少し難しいことだから、うまく伝えられているかどうか自信が

 ないのだけれど・・・。」
 
 
 
 

リーナは小首を傾げながら、不安そうな視線をエミィに向ける。ホントに小鳥み

たいだな・・・。エミィはリーナの表情の愛らしさに改めて感心しながら、笑顔

で応えた。
 
 
 
 

「うん、大丈夫。前に、星と話したとき、感じたことだから。」
 
 

「そう、よかったわ。それじゃあ、これを見てくれるかしら?」
 
 
 
 
 
 
 
 

リーナはホッとしたように表情を緩めると、テーブルの下から球状の物体を取り

出した。それは両手の掌を広げた上に乗るくらいの大きさで、2本の棒が突き出

していた。表面は滑らかに光沢を帯びていて、深く澄んだ青色の下地に、緑色や

茶色で地図のようなものが描かれているようだった。
 
 
 
 

「リーナ、何?これ・・・。」
 
 

「ふふ、これはね。」
 
 

リーナは楽しげに、鈴が鳴るように笑うと、球体を顔の高さまで持ち上げる。
 
 

「惑星ヴェスタリオミアの、模型なの。」
 
 

リーナはそう言うと、球体から手を離した。すると、球体はリーナの顔の高さの

空間に浮かんだまま、ゆっくりと回転し始めた。
 
 

「すごぉい・・・!これって、リーナが作ったの?どうやって浮かんでるの?」
 
 
 
 

エミィが興味津々な表情で目を丸くしているのを見て、リーナは満足そうに微笑

んでから、少し困った顔をした。
 
 

「わたくしが作ったのではないの、残念ながら、ね。これを作ったのは、わたく

 しの遠い祖先、古代王朝の人々なのですって。だから、どうやって浮かんでい

 るのか、わたくしにはわからないのよ。」
 
 

「そうなんだぁ・・・。でもすごいね、リーナのご先祖様って。」
 
 

「そうね、すごいわね、確かに・・・。」
 
 
 
 

リーナはそう呟きながら、一瞬、表情を曇らせる。しかし、すぐに元の明るい笑

顔に戻ると、球体を両手で包み込むように捕まえて、エミィの胸元の辺りに移動

させた。
 
 
 
 

「この2本の棒はね、大石柱なのよ。こちらの固定されている方が、エスタミス

 の大石柱。そして、こっちの動き回っているのが、このコルウァの大石柱。」
 
 
 
 

説明されてみると、なるほど、2本の棒はちょうど大石柱のある場所に配置され

ているのがわかる。驚いたことに、コルウァの方は球体の表面を、ある範囲の中

で少しずつ移動している。水域の水の流れに沿って移動する、浮遊島群メアラス

の動きが再現されているのだった。その上、大石柱は先端部を中心に赤く発光さ

えしていて、夜の闇に真っ直ぐ伸びる大石柱の情景が、エミィの脳裏に浮かび上

がってきた。
 
 
 
 

「すごぉぉい!!」
 
 

「ね、すごいでしょう?それでね、惑星の自転運動と、この大石柱、特にこっち

 のコルウァの大石柱の先端の動きを、組み合わせて観察して欲しいの。」
 
 

「う、うん・・・。」
 
 
 
 

エミィはリーナに言われたとおり、一生懸命、大石柱の先端の動きを目で追って

みた。それはとても複雑な動きで、じっと見つめていると、なんだか気分が悪く

なってきそうだった。
 
 
 
 

「今度はね、星の周囲にグルッとスクリーンを張ったと思って、そのスクリーン

 の上を大石柱の先端が動く様子を、イメージしてみて。」
 
 
 
 

エミィは星の周りに、球状のスクリーンをイメージしてみる。すると、星の動き

に合わせてスクリーンの上に、大石柱の先端が筆先となって、文字や図形を描い

ていくことがわかる。大石柱の先端の光の残像が、何かの文字を綴っているよう

に見えた。
 
 
 
 

「どう?何か見えて?」
 
 

「うん、何かよくわからないけど、でも、文字みたいなのが並んでいくような感

 じかな・・・?」
 
 

「そのとおりよ、エミィ。これが、ホントの言葉。この星にある全てのものを表

 している、この星の文字なのよ。」
 
 
 
 

エミィはそう言われても、何のことだか理解できない。キョトンとした顔でもう

一度、球体を見つめてみるけれど、やっぱりわからなくて、助けを求めるように

リーナに視線を向ける。
 
 
 
 

「ええと、ちょっと待ってね。」
 
 
 
 

リーナは少しの間、思案顔で球体を見つめていたが、何かを思いついて、期待に

膨らんだエミィの視線に笑顔で応えた。
 
 
 
 

「文字を表してるこの大石柱の動きが、どうやって生まれるのかを考えてみたら

 どうかしら・・・?」
 
 
 
 

それでも何がなんだかわからないエミィは、顔中をクエスチョン・マークにして

しまう。リーナは小さく咳払いすると、一言一言ハッキリとした、しかし穏やか

な口調で説明し始めた。
 
 
 
 

「もちろん、大石柱が乗っているこのコルウァ島の動きが、文字を表す上での一

 番大きな因子よね。だけど、それだけじゃないの。星の自転運動は、純粋に物

 理的な運動でしょう?それだけに、惑星上のちょっとした変化、例えば生物が

 死んだり生まれたりした時の、重量のバランスのわずかなズレなんかを、敏感

 に反映するのですって。」
 
 
 
 

リーナはそう言いながら、掌で作った平面をシーソーのように傾ける。その傾き

が羽ばたく翼のように揺れるのを見つめながら、エミィは“生命会議”の時に心

に溶け込んできた、星の上の全ての存在が手を取り合っているイメージを、鮮明

に思い出していた。
 
 
 
 

もしも星と話をしたことがなかったら、あたしはたぶん、リーナの言葉を信じら

れなかったに違いない。生物が移動したり、石ころが転がったり、そんな小さな

変動が惑星の動きに影響を与えるなんて、物理学の法則とかから外れているよう

な気がするもんねぇ・・・。
 
 
 
 

だけど、今はリーナの言うことが、実感を持って信じられる。星と、星から生ま

れたものたちは、お互いに影響し合いながら、言葉を綴っている。生まれたり死

んだり、形成されたり崩壊したり、吹いたり止んだり、浮いたり沈んだり、そう

やって繰り返される全ての物事が、筆先を動かす原動力となって、惑星ヴェスタ

リオミアという物語を、遙かな昔から未来に向かって編み続けている・・・。
 
 
 
 

「赤ちゃんが産まれた、西へ1ミクロン。お祖父様が亡くなった、東へ1ミクロ

 ン。小鳥の一家がお引っ越し、北へ1ミクロン。おっきなお魚が小さなお魚を

 たくさん食べました、南へ1ミクロン・・・。」
 
 
 
 

リーナは歌うように囁きながら、惑星の模型に指先で触れる。その度に模型の回

転軸は微妙に傾きを変えて、大石柱の筆先の動きも複雑に変化した。
 
 
 
 

筆先の光の軌跡を瞳に映しながら、エミィの心には今まで見聞きしてきたこの星

の上の全てのものの躍動が、鮮やかに再現されていた。日常生活の中の何気ない

出来事と、歴史に残るようなドラマティックな場面とが、複雑に幾重にも絡み合

いながら、星の筆先の軌道を決めていく様子が、エミィにはハッキリと見えた。
 
 
 
 

心の世界に没入して無表情になっているエミィの顔を、リーナは優しい笑顔で見

守っている。そして、花に水をやるような繊細さで、リーナは話を続けた。
 
 
 
 

「他にも、惑星内部の振動や、他の星々からの引力の影響や、いろんな因子が絡

 み合って、自転軸が少しずつズレるの。そして、自転周期ごとに自転軸がズレ

 ることで、たくさんの文字が表されるわ。」
 
 
 
 

リーナの言葉を聞きながら、エミィの心の世界には、新たに重力波や星々が注ぎ

込まれた。日常生活と歴史のドラマと星々の運行が、大石柱の筆先の上でピタリ

とシンクロしていた。そのアンサンブルの奏でる音楽に合わせて、この星は宇宙

空間に物語を書き残していく。
 
 
 
 
 
 
 
 

あ。ということは・・・!
 
 
 
 

そうか、あたしは今、この瞬間にも、あたしという生命の物語を、星を通じて宇

宙空間に書き残し続けているんだ・・・!
 
 
 
 

あたしが息をする、あたしが歌う、あたしがお腹いっぱい食べる、あたしが手を

動かす、あたしが走る、そういうひとつひとつのことがこの星の動きを、大石柱

の動きを決めているんだ。
 
 
 
 

そして、あたしが存在していなければ決して生まれることがなかった、この世で

たったひとつの文字を、言葉を、宇宙空間に刻みつけているんだ・・・。
 
 
 
 

エミィの心の世界は連鎖反応のように、次から次へとイメージを拡大し、唸りを

あげながら回転し続けていく。そして、次第にそれは壮大な世界観を形成してい

くのだった。
 
 
 
 

ああ、この星だけなんだろうか。地球は、月は、他の星々はどうなんだろう。こ

の星と同じように、やっぱり宇宙空間に物語を綴っているのだろうか。この星に

は大石柱があるけれど、他の星にはそれに代わるものがあるのだろうか。
 
 
 
 

きっと大石柱なんてなくても、物語は綴られている。どこでもいい、そこら辺り

の道端でもいいから、一点を決めてみる。その点の軌跡を追ってみれば、それは

言葉を綴り続けているに違いない。まるで一人一人の心の中に、それぞれの大切

な物語が、温められているように・・・。
 
 
 
 

だけど、それを宇宙に向かって表現するには、特別な道具が必要なのかもしれな

い。だからこの星は、大石柱を欲しがった。温め続けた物語を、自分以外のたく

さんの存在に読んでもらいたくて、大石柱というペンを手に取った。
 
 
 
 

最初の言葉を宇宙に刻んだその瞬間、この星はどれほど胸をワクワクさせていた

だろう。そして、どれほど誇らしかったことだろう。これが私です、私はここに

確かに存在していますよって、胸を熱くしたに違いない。
 
 
 
 

大石柱がどうやって造られたのか、それはわからない。もしかしたら、この星の

生命の進化の過程の中に、この星自身がそっと注ぎ込んだ“物語を書きたい”と

いう熱い想いが、古代王朝人の間で花開いたのかもしれない。あるいは、星の想

いと人間の願いが、偶然にシンクロしたのかもしれない。
 
 
 
 

大石柱の中を、天空に向かって滴り落ちていく生命の水粒。あのイメージは、ど

んな真実を語っているのだろう・・・。
 
 
 
 

とにかく、大石柱が造られたホントの理由はわからないけれど、今この星は物語

を宇宙に向かって表現し続け、同時にあたしたち一人一人も、宇宙に向かって表

現され続けているんだ。
 
 
 
 

そして、言葉を綴っているのは星だけじゃない。あたしたち、生き物だって同じ

なんだよね。生き物だけじゃない、生きていないものだって、みんなみんな、そ

うなんだろう。
 
 
 
 

あたしだって、あたし自身の物語を綴るのと同時に、あたしの体を作っている細

胞たちや、有機物や無機物なんかの織りなすドラマを、いろんな形の言葉にしな

がら、それをあたしの周りの世界に刻みつけながら、生きてるんだ・・・。
 
 
 
 

星とあたしの、相似形。
 
 
 
 

だけどあたしたち人間は、その言葉のほんの一部しか、理解する術を持っていな

いんだよね・・・。大石柱を造り上げた古代王朝の人々は、この星が綴る全ての

言葉を、理解することができていたんだろうか・・・。
 
 
 
 

エミィの心の世界の激動とは対照的に、リーナは冷静に言葉を連ねていく。
 
 
 
 

「このことを不思議だと思うのは、物事の順序が逆よね。もともと、文字ってい

 うのは星の動きが表すこの現象のことだったのだから。私たち人間は、その中

 のいくつかを、知らないうちに取り出して、使っているの。言葉ってね、世界

 の脈動の表現なんだって、わたくしには思えるわ・・・。」
 
 

「うん、あたしもそう思うよ、リーナ。ホントに、そう思う。」
 
 
 
 

半分だけ心の世界から抜け出しながら、エミィは遙かな古代王朝時代に想いを馳

せていた。星の綴るホントの言葉を、大石柱によって目に見える形にすることが

できた、古代王朝人の奇跡。人々がその復活を願う気持ちが、わかるような気が

するなぁ・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 

「だけどね、エミィ。」
 
 
 
 

エミィの夢見るような表情を見つめながら、リーナは声のトーンを落とした。
 
 
 
 

「言葉というものには、ふたつの側面があるわ。ひとつは、自分自身を外側に向

 かって表現するということ。この星が、ホントの言葉を宇宙に向かって綴って

 いるようにね。」
 
 

「うん。」
 
 

「そしてもうひとつは、その言葉を受け取った相手に働きかけて、影響を与えて

 しまうということなのよ。例えば、わたくしたち人間の言葉でさえ、使い方に

 よっては相手の心や体を、癒してあげたり、反対に壊してしまったりできるで

 しょう?」
 
 

「うん、そうだよね。言葉って、時に凶器になってしまうね・・・。」
 
 

「それと同じようにね、自然界に満ち溢れるいろいろな言葉を使うことは、自然

 界に働きかける力にもなるの。」
 
 

「自然界に、働きかける・・・?」
 
 

「そう、働きかけて、動かしてしまうことができるのよ。優しい言葉で大好きな

 人の心を癒すように、ある種の言葉を使うと、森を癒すことができる。氷のよ

 うな言葉で憎らしい人の健康まで壊してしまうように、別のある種の言葉を使

 うことで、山を崩してしまうことだってできる。言葉には、とても大きな力が

 潜んでいて、使い方によっては恐ろしい結果を招くことがあるの。」
 
 

「それって、呪文みたいなもの?」
 
 

エミィに聞かれて、リーナは小さく首を横に振る。
 
 
 
 

「いいえ、呪文とは違うわね。その呪文がどんな形をしていても、それは人間の

 間で使う言葉に過ぎないから。動物には動物の言葉があるし、植物には植物の

 言葉があるわ。山には山の言葉があり、川には川の言葉があるの。それぞれに

 いろいろな形をしていて、いろいろな表現の仕方がある。それは音や文字のこ

 ともあるけれど、動きのこともあるし、光や匂いや感触のこともあるのよ。」
 
 

「ああ、そっか。」
 
 

「例えば、あなたを愛していますって、人間には人間の言葉で、表現の仕方で伝

 えられるわよね。動物にも、なんとか伝えることができるかもしれない。植物

 にもね。だけど、相手が山や川の場合は、全然別の言葉と表現があるの。もち

 ろん、人間のやり方で伝えても伝わることはあるけれど、それは特別な場合だ

 けね。山に愛を伝えたいのなら、まず山の言葉や表現の仕方を知ることから始

 めるのが、誠実な愛情というものだわ。」
 
 

「自分のやり方を押しつけては、ダメなんだね・・・。」
 
 

「ええ・・・。そしてある時、自然界にあるいろいろな言葉を、人間は探し始め

 たの。ホントに純粋に、山や川と仲良くなりたい、愛し合いたいって、それだ

 けだったのよ。最初は、ね・・・。」
 
 

そう言いながら、リーナは遠い目をした。
 
 
 
 

「古代王朝時代の、話ね・・・?」
 
 
 
 
 
 
 
 

エミィに言われて、リーナは悲しげで、それでいてとても優しい、不思議な表情

になった。そして、無言で頷くと、森の方に視線を向けた。
 
 
 
 

「たくさんの言葉を見つけたわ。例えば、森に愛してるって言う時は、こうする

 のよ・・・。」
 
 
 
 

言い終わらないうちにリーナは、森の方を向いて背筋を伸ばすと、両手を胸の上

で重ねて、軽くお辞儀をしてからクルッと1回転する。そして今度は、両腕を頭

の上で組み合わせる。その形は何種類かあるようで、組み変わっていくリーナの

両腕のパターンは、森の木々の枝の組み合わさり方を思い起こさせた。また、腕

を組み変える度にしなやかに揺れるリーナの体は、ほのかな艶やかささえ醸し出

していた。
 
 
 
 

すると、森の奥の方からザワザワという木々のざわめきが起こり、こちらに近づ

いてくるのが感じられた。それは、まるで想いがこみ上げてくるようで、リーナ

の正面に立っている木々に達したざわめきは、風になって一気に弾けた。
 
 
 
 

ここは部屋の中で、だから風を直接感じるはずはないのだけれど、エミィは森か

ら吹いてきた想いの風に、直接吹かれているような気持ちだった。
 
 
 
 

リーナはその風を、森の想いを体いっぱいに浴びながら、幸せそうに目を閉じて

いる。リーナの亜麻色の髪は、風になびいているようにさえ見えた。
 
 
 
 

「森は優しいから、心を込めればそれだけでも聞いてくれるけれど、ちゃんとこ

 ういう言葉もあるのよ。森の言葉を使った方が、森も喜んでくれるわ。もちろ

 ん、心を込めていなければ、どんな言葉を使ってもダメだけど・・・。」
 
 

「ふ〜ん・・・。」
 
 
 
 

エミィは心から感動して、ため息をついた。むやみやたらに、誰にでも愛を囁い

ちゃいけないけど、あたしもやってみたいなぁ。森に、大好きだよって。
 
 
 
 

するとふいに、アリムの顔が浮かんできて、エミィはドキッとする。う、浮気す

るんじゃないからね。あたしは、アリム一筋なんだから。い、今までだって、あ

たしは数々の色男たちの誘惑を、蹴散らしてきたんだから・・・。
 
 
 
 

何事か呟きながら、真っ赤になってうつむいているエミィを、リーナは静かな眼

差しで見つめていた。そして、何かを羨ましがる子供のような顔を、一瞬だけ見

せる。しかしすぐに表情を引き締めてから、エミィには聞こえないくらい小さな

声で、ため息混じりに言った。
 
 
 
 

「愛を囁く言葉はね、時に恐ろしい力にもなるのよ・・・。」
 
 

「え?何か言った?」
 
 

「ううん、何でもないわ、エミィ。気にしないで。」
 
 
 
 

小首を傾げて小さく笑うと、リーナは気を取り直すように声のトーンを上げた。
 
 
 
 

「それより、さっきの風、感じたでしょう?ステキな、愛の風。」
 
 

「う、うん。」
 
 

「風はね、ほとんどの言葉に代えて想いを乗せることができるのよ。言ってみれ

 ば、“共通語”のようなものかしら。動物や植物はもちろん、石や、山や、水

 や、雲にだって、風に乗せて想いを伝えることができるわ。」
 
 

「あ・・・。」
 
 
 
 

エミィは、今までたくさんの想いが風に乗って伝わってきたことを、思い出して

いた。人の想い、動物や魚の想い、森の想い、そして、星の想い・・・。
 
 
 
 

「そしてね、想いが乗った風は、伝える相手に相応しい形に姿を変えるの。風そ

 のものが、言葉としての形を持つのよ。だから、風が吹く時にはいつも、必ず

 理由があるのだけれど、その風がどんな想いを乗せているのかは、伝えられる

 相手にしかわからないのね。」
 
 
 
 

そこで小さく息を吸うと、リーナは軽く目を伏せる。
 
 
 
 

「例えば、わたくしがエルに伝えたい想いを、風の言葉に変えて飛ばしても、彼

 以外の人にはただの風でしかないの。風が、彼にしか聞こえないような言葉に

 形を変えてしまうから・・・。」
 
 
 
 

リーナは今にも、愛しい人への想いを風に乗せようとでもするかのように、細く

綺麗な指を宙に漂わせた。あかぎれて傷付いてはいても、その指は象牙のタクト

のように美しく、エミィは部屋中に音楽が流れ出すのを聞いた気がした。
 
 
 
 

その音楽に乗せて、リーナは古代王朝の人々の話を続ける。
 
 
 
 

「相手によって固有の形があるということは、逆に風をつかまえて分析すること

 で、その風の相手がどういう存在かを知ることもできるわ。だから人間は、風

 という言葉について、一生懸命に研究したの。もちろん、他の言葉もたくさん

 見つけたけれど、あまりに多すぎて、キリがないものね。風を自由に使いこな

 すことができれば、他の言葉を知らなくても、いろいろな存在と交流すること

 ができるから・・・。」
 
 

「風を、使いこなす・・・。」
 
 

「難しいのよ、風を使いこなすのは。“風に想いを乗せる”なんて簡単に言うけ

 れど、そんなに簡単なことではないのよね・・・。イーダくらいかしら、風を

 今でも、自由に使えるのは・・・。」
 
 
 
 

エミィは、イーダ・ホルンのことを思い出してみた。そういえばイーダは、自由

に風を起こすことができるんだった。あれって、敵を吹き飛ばしたりするための

ものなんだって思っていたけど、ホントは言葉として使うものだったのか。全然

気がつかなかった・・・。
 
 
 
 

「そして人間は、なんとか風という言葉を使いこなせるようになったわ。自由に

 想いを乗せたり、風に乗せられた想いを読み取ったりできるようになった。そ

 のおかげで、世界中を駆け回るたくさんの風を解読して、いろいろな存在と交

 流することができたし、相手が使う独特の言葉を知ることもできたの。」
 
 

「なるほどね・・・。そうするとイーダたちの特別な力も、その頃に知った言葉

 を使っているってこと?」
 
 

「そのとおりよ、エミィ。クーアの雷も、シルトの火も、ナリヤの水も、カラの

 霧も、もちろんイーダの風も、ペーナの月光だって、相手の言葉を使って、何

 らかの影響を与えることで、相手を動かしてしまっているのね。」
 
 

「そっかぁ・・・。言葉って、すごい力があるんだ。」
 
 

「そう、すごい力だわ。だからその力を、言葉を使うことは、厳しく制限される

 ようになった。風を使った言葉の研究もね。今でもそうだけど、アルティメン

 以外は力を使わないって決められたのよ。・・・表向きには。」
 
 

「表向き・・・?」
 
 
 
 

表情を引き締めたエミィに、リーナは悲しげな瞳で頷いた。森の方から、さっき

の愛情に溢れたものとは違う、乱暴な風が吹いて、部屋全体を揺さぶる。
 
 
 
 

「いつの時代にも、知識への欲望に負けてしまう人間は多いわ。知性の奴隷にな

 り果てて、ホントに大切なものが見えなくなる、哀れな人々・・・。そして、

 そういう人々に群がる権力の亡者たち・・・。彼らは、風を使って言葉を探る

 研究を続けたの。永遠に続く渇きを、癒そうとするかのように・・・。」
 
 
 
 
 
 
 
 

<CAUTION・・・!!>
 
 
 
 

エミィの心の中で、警告信号が小さく鳴り始めた。これ以上、この話を聞いては

いけない、そんな気がする。大切なものを、失ってしまうような・・・。それで

も何かに惹きつけられるように、エミィの五感はリーナの言葉を待っている。
 
 
 
 

「そしてね、そうやって知ることができた言葉の中には、森の言葉とか、この星

 自身の言葉もあったの。」
 
 

「この星自身の、言葉・・・。」
 
 

「そのことは決して、マイナスばかりじゃなかったのよ。森や星の言葉を知るこ

 とができたおかげで、あの“生命会議”を開けるようにもなったし・・・。」
 
 
 
 

ここでリーナは、大きくゆっくりと深呼吸した。その様子は、次の言葉を口にす

るのをためらって、時間稼ぎをしているかのように、エミィには感じられた。息

を吐ききってしまうと、リーナは諦めたように話し出す。
 
 
 
 

「だけど、星の言葉を知った人間は、あの大石柱を造ってしまった・・・。」
 
 

「で、でもさ、リーナ。それって、いいことなんじゃないの?大石柱はこの星の

 物語を、宇宙に書き残してるんでしょ?」
 
 
 
 

リーナの言葉の真意を測りかねて困惑するエミィに、リーナは小刻みに首を横に

振って、答えた。
 
 
 
 

「大石柱はホントの言葉を、この星の物語を宇宙に書き残している。それは嘘で

 はないし、ステキなことだわ。だけど、大石柱が造られたホントの目的は、そ

 ういうことじゃないの。古代王朝の人々は、もっと恐ろしいことを考え出して

 しまったのよ・・・。」
 
 

「え・・・?」
 
 

「言ったでしょ、言葉を使うことで、自然界に働きかけることができるって。」
 
 

「うん、でも、それが大石柱と、どんな関係が・・・?」
 
 

「大石柱が綴る言葉は、星の言葉なのよね。つまり、宇宙の言葉なのよ。」
 
 

「え・・・?それって・・・。」
 
 
 
 

エミィの心の中には、雨雲が太陽を覆い隠すように、影が広がった。嫌な予感が

心臓の内側で暴れ回り始めている。その予感を形に翻訳したくなくて、エミィは

リーナを見つめる瞳に力を込めた。
 
 
 
 

しかしリーナは、エミィの視線から顔を背けると、何かを捨て去るような投げや

りな口調で、予感だったものを言葉にする。
 
 
 
 

「それで人々は大石柱に、ある特定の言葉を表現させようとした。そうすること

 で宇宙に働きかけて、宇宙そのものを動かそうとしたの。」
 
 

「な、なんだってぇ・・・!?」
 
 
 
 

エミィは、思わず素っ頓狂な声を挙げてしまった。しかしそれを無視するかのよ

うに、リーナは話し続けていく。その口調には、少しヒステリックな色が混じり

始めていた。
 
 
 
 

「もっと正確に言うと、この星を含む宇宙空間の中で、ある特殊な現象を起こそ

 うとしたの。古代王朝の人々の夢を実現させるために、この星と、この星の上

 に存在する全てのものを、利用しようとしたのよ・・・。」
 
 
 
 

リーナの声は震え、顔面は蒼白になっていた。瞳は潤んで宙を漂い、息づかいは

荒くなった。それでもリーナは、なんとか心を落ち着かせようとするように、目

をきつく閉じて眉間にしわを寄せた。
 
 
 
 

エミィは、リーナのこんなに苦しげな表情を今まで見たことがなかった。まるで

罪の重さに苦しむ、犯罪者のように見える。
 
 
 
 

確かに、古代王朝の人々が考え出したことは、とんでもないことかもしれないけ

れど、既に大昔に滅びてしまった王朝の夢なんだし、それに、悪いこととは限ら

ない。仮に悪いことだったとしても、リーナはただ子孫だというだけで、リーナ

が悪いわけじゃないはずだよ・・・。
 
 
 
 

リーナの苦しみがどこからくるのかわからずに、エミィは戸惑ってしまう。
 
 
 
 

「リーナ、落ち着いて。ね、大丈夫?どこか苦しいの?」
 
 
 
 

しかし、エミィの言葉はリーナの耳には届いていないようだった。リーナは震え

ながら、声を絞り出していく。
 
 
 
 

「大石柱に、言葉を刻ませるには、この星の動きを、制御しなければ、ならなか

 ったの・・・。そのためには、人間や、動植物や、森や、星の上に満ち溢れる

 全ての存在を、一定の方向に向かわせなければ・・・。」
 
 

「一定の、方向に・・・?」
 
 

「そう、一定の方向に。」
 
 

「そ、そんなこと、できるはずがない・・・!」
 
 
 
 

エミィは、「一定の方向に向かわせる」というリーナの言葉に、今の世界の状況

が重なるように思えて、戦慄を覚えた。ひとつの大きな流れに集約していくかの

ような、惑星ヴェスタリオミアの“運命の急流”・・・。
 
 
 
 

「昔はね、できなかったの、アルティメア王朝時代には・・・。人間の精神をは

 じめとして、何もかもが豊かに成熟しすぎていたから・・・。ひとつの方向が

 あれば、必ず反対の方向も出てきて、それらが調和を保って存在することがで

 きていたの・・・。そんな状態の中で、全てを一定の方向に導くなんていうこ

 とは不可能だったわ・・・。」
 
 
 
 

まるで、その時代を実際に生きていたかのように、リーナは懐かしそうな目をし

ながら、エミィの足下を見つめている。そしてゆっくりと顔を上げると、小さく

息を吐いて言った。
 
 
 
 

「だけど、今ならできる、できるのよ・・・。世界中が荒れ果てて、狂いだした

 今なら。」
 
 
 
 

リーナの口調と声は、徐々に落ち着きを取り戻していた。それとともに、リーナ

の表情は、冷たく凍り付いていくように見えた。しかもその心には、鋭い刃物の

ような冷酷な輝きが現れて、エミィを驚かせた。
 
 
 
 

「で、でも、どうやって、そんな・・・!」
 
 
 
 

エミィは、ゴウゴウと音を立てて流れ始めた激流に抗うように、必死の形相で声

を振り絞る。そんなエミィの表情に見え隠れする、戸惑いや恐怖を見透かしたよ

うに、リーナは小さく笑った。
 
 
 
 

「古代王朝人は言葉について、徹底的に研究し尽くしたわ。それはつまり、何を

 どうすれば相手の心に影響を与え、動かすことができるのかについて、知るこ

 とでもあったのね。」
 
 

「あ・・・。」
 
 
 
 

「例えば、混乱した世界の中に、希望の光を投げ込むの。そしてね、ゆっくりと

 時間をかけて、この星の全ての人々がその光の方を向くようになったら、今度

 は突然、それを奪ってしまうのよ。目の前で希望の光を奪われて、絶望してし

 まった人々の精神は、とても扱いやすいわ。正常な心を失った彼らが気づいて

 みると、そこにはアルティメア教が、レアナレスがある・・・。」
 
 
 
 

エミィの心には、リーナの巨大な生命の輝きが、徐々に変質していく姿が映し出

されていた。柔らかく暖かな光は、言葉が重なるに従って凍り付いていった。そ

して光の中心部に潜んでいた、あの底知れない影が、深く大きくなっていった。
 
 
 
 

その影には、とても情熱的で炎のように輝く、光の束が絡みついていて、光と影

のまだら模様になっている。エミィはこの情熱的な輝きを、以前にも誰かの心の

中に感じたことがあった。懐かしい輝き、希望の光。それは、あまりにも非情な

真実を、エミィに突きつけていた。
 
 
 
 

「アーク、レク・・・!そ、そんな・・・。リーナ、あなたは・・・。」
 
 

「そうよ、エミィ・・・。アークはわたくしの、もう一人の自分なの。」
 
 
 
 

リーナは微笑みを浮かべた。その微笑みはあまりにも優しげで、寒気を覚えるほ

どに透き通っていた。きっとこの世にある温もりは、全て通り抜けてしまうに違

いない。そう思えるほどに、透き通っていた。
 
 
 
 

リーナの顔を見つめて見開かれたエミィの両目からは、涙が止めどなく溢れ出し

ていた。アルティメア王朝人の末裔であるリーナに性転換能力があっても、何の

不思議もない。モス様からアルティメア人の特別な能力について教えてもらった

時に、どうして考えてみなかったんだろう。リーナがアークと同一人物だと考え

れば、納得のいく出来事がいくつも思い当たる。だけど・・・。
 
 
 
 

大好きだったリーナが、どこか遠くに行ってしまうよ・・・。行かないで、行か

ないでよ・・・!エミィの心は、ドクンドクンと、血を流すように叫んでいた。
 
 
 
 

「エ、エルメは、エルメ・・・は・・・。」
 
 
 
 

何を言っていいかもわからず、エミィはようやくそれだけを言葉にした。激しい

怒りが、エミィの心に渦巻いていた。しかしその怒りは、リーナに向けられてい

るというよりは、何かもっと巨大な、今この星を覆っているものに対する、生命

の奥底から沸き上がってくる憤りだった。
 
 
 
 

リーナはエルメの名前を聞いて、一瞬、顔を悲しげにゆがめた。それはわずかに

残されたリーナの中の暖かい心が、悲鳴を上げたように見えた。けれども、その

表情も次の瞬間には消え去って、再び氷に閉ざされた顔で、リーナはエミィの泣

き顔から森へと、視線を移す。
 
 
 
 

森は、二人の行方を凝視するように、今は深い静寂を保っていた。あるいは、愛

するリーナの急激な変貌に、森もまた、絶望して立ちすくんでいるのだろうか。
 
 
 
 

「わたくしはエルを、愛していたわ・・・。いいえ、きっと今も、愛しているわ

 ね・・・。だけど、わたくしは彼を裏切り続けたのよ。彼から大切なものを奪

 い、彼を傷つけ、絶望的な戦乱の中に突き落とした・・・。」
 
 

「そうよ。そして今度は、リーナという恋人まで、奪おうとしているんだわ!」
 
 
 
 

エミィはそう言い放ってから、後悔した。本来なら、リーナの後ろに横たわって

いる巨大な存在に向かって、言いたかったことのはずだったのに・・・。感情が

ほとばしって、抑えつけることができなかった。
 
 
 
 

無表情なリーナの瞳に、涙が溜まっていく。こぼれ落ちないように緊張を保ちな

がら、涙はキラキラと小さく輝いた。
 
 
 
 

「ホントはね、一緒に逃げて欲しかったの。誰も知らないような、どこか、遠い

 ところへ・・・。でも彼は、アークを選んだわ。わたくしではなく、アークの

 残した理想と共に戦うことを、彼は選んでしまった・・・。」
 
 
 
 

リーナの左目から、一筋の輝きがこぼれ落ちた。しかし、まるでその輝きが幻で

あったかのように、リーナの無表情はますます冷たく凍り付いていく。
 
 
 
 

エミィは黙ってそれを見つめながら、全身の力が抜けていくのを感じていた。も

う、ダメなんだろうか。みんなが幸せになる道は、どこにも残されていないんだ

ろうか・・・。
 
 
 
 

ううん、そんなはずはない、そんなはず、絶対にない・・・!今なら、今ならま

だ引き返せるよ・・・!
 
 
 
 

最後の気力を振り絞ってエミィがそう叫ぼうとした時、リーナが静かに、笑顔を

浮かべた。それはさっきの透き通った微笑みではなく、エミィがよく知っている

あの、柔らかく暖かなリーナの笑顔だった。
 
 
 
 

そして、その笑顔を見つめながら、エミィの心の中に渦巻いていた怒りや悲しみ

は無理矢理、安心感と幸福感に塗りつぶされていったのである。
 
 
 
 

ああ、そっか・・・。これが、リーナの力。教授の言ったとおり、人々を導くた

めの、麻薬だったんだ・・・。あたしの大好きな、リーナの温もり・・・。麻痺

していく心の中でエミィは、巨大な安心感と幸福感の間で押し潰されようとして

いる最後の希望の、断末魔の叫びを、為す術もなく聞いていた。
 
 
 
 

「人々の精神が一定の方向に向かえば、あとは風を吹かせるだけ。動物も、植物

 も、森もみんな、愛の風で包みましょう・・・。もうすぐよ、もうすぐ古代王

 朝の人々の理想が、実現されるのです。コルウァの大石柱は、宇宙に愛の言葉

 を刻むわ。そしてエスタミスの大石柱は、3つの月から注がれる、祝福の光を

 受け止めるために、大きな杯を描き出すの。全ての“精神内遺伝波動”の融合

 と昇華、理想の世界へと続く螺旋階段・・・。エミィ、これはとても、とても

 ステキなことなのよ・・・。」
 
 
 
 

歌うように囁くリーナの言葉の海で、エミィは夢の中のようにボンヤリと漂って

いた。ステキなこと、とても、ステキなこと・・・。それならリーナ、あなたは

どうして涙を流したの・・・?なんか、不思議だね・・・。
 
 
 
 

今にも崩れ落ちてしまいそうに、フラフラしているエミィの肩を、両手で支える

ようにしながら、リーナはエミィの瞳を覗き込んだ。
 
 
 
 

「今まではわがままを言って、少しずつ引き延ばしてきたの・・・。だけど、も

 うこれ以上遅らせることはできないのよ・・・。全て、わたくしの責任なのだ

 から・・・。」
 
 
 
 

責任・・・?薄れゆく意識の中でエミィはリーナに向かって手を伸ばす。一人で

何もかも背負い込んじゃダメだよ、リーナ・・・。
 
 
 
 

しかしリーナは、軽く首を横に振ると、力強い声で言った。
 
 
 
 

「わたくしの名は、アルティメア。リーナ・アルティメア。この星の全生命体の

 女王・・・。これは、わたくしにしか、できないことだから・・・。」
 
 
 
 

それからリーナは、エミィを両腕でしっかりと抱きしめ、左頬にキスをした。
 
 
 
 

「おやすみなさい、エミィ・・・。ゴメンね・・・。」
 
 
 
 

エミィは真っ暗な霧の中に沈み込んでいく。けれどもその途中で、塗りつぶされ

てしまった心の表面の向こう側に、作り物ではない暖かい気持ちが、静かに、そ

して力強く輝いているのを見つけた。その気持ちは繰り返し繰り返し、同じ言葉

を囁いていた。
 
 
 
 

<リーナ、一人ぼっちのリーナ・・・。今度はあたしが、あなたを抱きしめてあ

 げるからね・・・。>
 
 
 
 
 
 



 

comment

 

長いです(笑)。でも、読んで下さい(自爆)。ただ、時間覚の説明の部分なん

かは、何を言いたいのか、理解不能かもしれません。なにしろ、もともと私たち

人間には、感覚することができないものなのですから(汗)。
 
 
 
 

さて、いきなりの最終章で、驚かれた方も少なくないでしょう。書きかけで放り

出してある第1章や“Interlude”の続きを、早く書けって怒られそうですね。
 
 
 
 

実は、ヴェスタリオミア物語を書き始めた時に、一番最初に原案がまとまったの

が、今回のお話でした。言ってみれば、序章と今回の最終章(0)が、この物語

全体の“骨組み”に当たります。
 
 
 
 

それで、大まかな文章はメモして貯めてあったのですが、正式に書き上げるに当

たって、これから書いていく部分との整合性やら(汗)、伏線張りまくり(笑)

やらで、ずいぶん手間暇かかりました。魂入ってます(オイオイ)。
 
 
 
 

今回このお話を書き上げたのは、だんだん広がって散乱していってしまう物語の

道しるべ、灯台みたいな存在が欲しかったからです。それと、仕事が忙しくなる

に従って、なかなか物語が進まなくなったので、“骨組み”だけでも先に形にし

てしまいたいという、素人の欲求と焦りもあったし・・・。
 
 
 
 

そんなわけで、今回のお話の中には、かなりネタバレ的な部分があります。読ん

で下さる方の興味を削いでしまうかもしれませんが・・・。
 
 
 
 

ただ、これはあくまで“骨組み”であって、タイトルにもあるとおり、ひとつの

解釈に過ぎません。もっと言えば、このお話は“おまけ”でしかなく、これから

何年もかけて書いていく(予定の(汗))肉付け的なエピソードこそが、ヴェス

タリオミア物語の本体であり、“物語”そのものなのです。
 
 
 
 

最終章にしても、今後まだまだ、七転八倒します(笑)。レアナレスや大石柱の

謎は、この程度ぢゃ終わりません(汗)。でも、最終章の続きは、全ての物語が

終わってから、最後に書く予定ですので、数年後ですね ・・・。
 
 
 
 

というわけで、今後もどうか、温かく見守って下さいませ。
 
 

作・ 小走り
EMAIL:kobashi@nsknet.or.jp
http://hideo.com/kobashi/




 

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