(05/5/7)

へそ曲がりご異見版


尼崎JR西日本列車事故について思う

 あまりにも悲惨な事故だった。それだけに、マスコミがこぞって責任者探し、責任追及に汲々としている。最初は、短期間に3度も処分を受けたことのある事故列車の運転士、そして次はJR西日本。皆、悪者探しにやっきになっている。そこにへそ曲がりの私は何か違和感を感じる・・・


 事故車両に乗り合わせたJR西日本職員(別の運転士2名)が事故直後に当直(新聞には上司とあった)に連絡したが、その当直が時刻通り出社するよう指示し救助活動をするよう指示しなかった。マスコミはそれはけしからんと報道する。

 しかし、その職員も別の列車の運転予定が入っていたのだから、出勤しなければ、その列車運行に差し支える。代替の要員がいるわけでもない。別の車両の運行を休止してまで救助活動にあたれと皆言うのだろうか。しかも、マスコミの論調はそのような運転士に対して処分をしろというものだが、一体どのような処分理由があるというのだろう。それは、法的義務と道義的義務を混同するものではないか。

 遺族の方々にしてみれば、「考えられない」「乗客や住民も救助を手伝った。平然と職場に向かう心が信じられない」と怒るのももっともだが、もっと複眼的な思考をしてほしい。

 JRも「大惨事を前にしてまず行うべきは被害者の救助」などと建前論を言って職員を批判するのはおかしい。それでは、もし彼ら2名の運転士が自分の判断で救助活動に向かうから出勤しないと言えば、JRはどうしたのだろう。逆に、職務放棄といって懲戒処分が待っていたのではないか。今頃になって聖人君子じみたことを言い合うのは止めるべきだ。


 事故当日、JR西日本天王寺車掌区でボーリング大会をしていた、それがけしからんという報道があった。

 しかし、彼らは非番の日にレクリエーションをしていただけだ。非番の日にレクをするというのは、職場内の人間関係を円滑にし、かつ、明日からの業務のためのリフレッシュのために大切なことではないか。レクリエーションを止めて救助活動に向かうのは道義的には素晴らしいことではあるが、そうすべきであるとは法的には言えない。

 言ってみれば別の支店が起こした事故のために救助に駆けつけるのは、確かに企業人としては立派なことだが、法的にそうすべきだとは直ちには言えない。

 逆に、JR社長が「同じ鉄道人の一人として情けない」というのは、労働者に無償奉仕を求めるものであって、筋違いの「謝罪」ではないか。


 遺族の方はJRに殺されたと怒る。気持ちは分かる。私もそう思う。

 しかし、怒る前に考えてほしい。そもそもJRはどのようにして設立されたのか。JRは、旧国鉄の多額の借金の返済、国鉄株の高値売却、そして国労解体を目的として設立されたもので、企業利益をとことん高めることが至上目的だったのではないか。

 しかも、利用者もJRに早さを求めていたのではないか。JRはそれを利用して極限まで早さ、時間厳守を求め、それにより利益を上げてきた。少しでも遅れれば、「どうして遅れた」と言って怒っていたのは乗客ではなかったのか。その結果、今回の事故が起こるべくして起きた。昔の国鉄のままであれば、今回の事故は発生しなかっただろう。

 もし今回の事故を誰かに殺されたという言って怒るのであれば、私たち日本社会、国が運転士をも含めて多数の一般市民を殺したのではないのか。


 遺族が遺族会を作るのに事故被害者の名簿を見せてくれ、それができなければ遺族に遺族会の設立を呼びかける書面を渡してくれと言った。それを、JR西日本が一度は約束しながら未だに送っていない。それは、JR西日本にとって都合の悪い組織を作られるのが嫌だからだというコメントが報道番組で流されていた。

 しかし、事故犠牲者の名簿を1個人の「思いつき」のために利用することは、プライバシーの侵害という前に、個人情報の目的外利用にあたり、個人情報保護法に反する。だから、協力したくてもできないのだ。マスメディアであれば当然分かっていることなのに、それをあえて口をつぐんでJR西日本が自己保身に走っている悪い存在かのように報道している。


  今回の事故を皆、誰かの責任にして、怒っている。マスコミは、いかにも自分たちが正義であるかのような顔をして、それをはやし立てる。しかし、それは事故の本質を見落とすものではないのか。誰かスケープゴートを見つけて、自分の精神衛生を保っているだけではないのか。

 皆、怒り合い、憎みあう前に、もっと住みよい世の中を作るために冷静に考えてほしい。それが事故で亡くなられた方に対する、私たちのせめての追悼ではないのだろうか。


G道路公団総裁解任劇 03/11/3(04/1/2付記)

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