司法改革と非常勤裁判官制度

第一 新たな司法像の模索

二 司法改革の目的は何か

三 「司法の容量の増大」は現在の官僚裁判官による裁判所を大きくすることなのかー狭義の司法と広義の司法

四 司法相対化論は誤りか

五 私たちのめざすべき司法像

 1 国家による司法から自治体による司法へ

 2 官僚による司法から市民による司法へ

(一)市民の司法参加

(二)法曹一元

(三)官僚裁判官の市民的自由の回復ー「法律家」としてのキャリア裁判官へ

第二 非常勤裁判官制度とは何か

一 イギリスの非常勤裁判官たち

二 日本で考えられる非常勤裁判官モデル

 1  非常勤裁判官制度シンポジウム構成劇

 2 地家裁支部モデル

 3 幻の「阪神・淡路大震災に起因する民事調停事件の処理に関する特別措置法」

 4 民事調停主任

 5 合議事件には非常勤裁判官は向かないか

三 日本で非常勤裁判官制度を導入する意義

四 非常勤裁判官制度の法的スキーム

五 まとめ

第一 新たな司法像の模索

一 はじめに

 私の「司法改革構想」は、改革の対象である「司法」を裁判所の裁判手続に限定せずに、広く裁判外紛争処理機関の手続をも含めて解し、その運営主体を国家のみならず自治体にも広げ、その担い手として弁護士、市民の役割を重視して考えるものである。そうすることによって、「司法」が民主国家にふさわしい民主的な制度となり、市民の「裁判を受ける権利」が実質的に保障されるのである。非常勤裁判官制度はそのような司法改革構想の中の一つである。非常勤裁判官制度について論じる前に、まず私の「司法改革構想」の説明をしておきたい。

二 司法改革の目的は何か

 司法改革の目的は、憲法の保障する「裁判を受ける権利」をいかにして実質化するかにある。

 民事・刑事・行政訴訟のいずれにおいても、今日、市民の「裁判を受ける権利」は実質的に保障されていない。「実質的に」というのは、「裁判を受ける権利」の内実が裁判所へのアクセス権であり、裁判における手続的デゥープロセスの保障の権利であり、実効的な救済を受ける権利だからである(注1)。それでは、なぜ現状においては「裁判を受ける権利」が保障されていないのだろうか。

 それは、一言で言うならば、公的紛争解決制度が裁判所に独占されており、裁判所が官僚裁判官に独占されているからである。しかも、裁判所は「司法権の独立」という神話に守られて、国会・内閣の介入から遮断されているのみならず、市民の批判からも超然としている(注2)。このような裁判所が市民サイドに立つことを期待するのは無理というものである。いや、恐ろしいのは、裁判所が市民サイドに立っていないことを裁判官自身が自覚していないことである。かえって、彼らは自分たちこそが市民サイドに立っていると認識している。この「権力の思い上がり」ほど恐ろしいものはないであろう。受益者である市民が真に良質な司法サービスを裁判所から受けようとすれば、市民自身が裁判所の運営に主体的に参加することが不可欠なのである。市民の主体的な参加がない限り、裁判所が国家的観点の社会秩序維持機関に堕してしまうのは当然であろう。

 公的紛争解決制度が裁判所に独占されており、かつ裁判所が官僚裁判官に独占されている制度を、ここでは「官僚司法制度」と呼ぶことにする。その担い手が司法官僚層である。司法改革の課題は、この官僚司法制度を打破していくことである。

 それでは、どうすれば官僚司法制度を打破できるのか。その方策は、裁判所=国家司法の領域を狭め(比喩的に言うならば「小さな裁判所」)、官僚裁判官の役割を小さくすることである。その代わりに構築すべきなのが、自治体司法であり、市民参加司法である。

三 「司法の容量の増大」は現在の官僚裁判官による裁判所を大きくすることなのかー狭義の司法と広義の司法

 日弁連は、司法改革として「司法の容量の増大」を提唱している。しかし、そこでいう「司法」とは何を指すのか。現在の官僚裁判官を増員し、官僚裁判官の独占する裁判所を増やしても、市民の「裁判を受ける権利」を保障することにはつながらない。むしろ、これから望まれるのは、裁判所は古典的な「司法」を扱うものに特化して「小さな裁判所」をめざし、その代わりに紛争類型に応じた多様な紛争解決チャンネルを用意し、紛争の性質・内容にふさわしい適切な手続的保障を行っていくことなのではあるまいか(注3)。すなわち、自治体所管の裁判外紛争処理機関(裁判所内ADRを含む)を多数増設し、これを「司法」の領域の中に取り込んでいくのである。

 現在進められている民事訴訟法改正作業にしても、多様な類型の紛争をすべて裁判所の民事訴訟手続の中で処理しようとするから、裁判所の裁量の幅が極めて広くなり、「弁論準備手続」のような、古典的な民事訴訟法理論から逸脱したような非定型な訴訟手続が登場するのである。むしろ、民事訴訟手続は、当事者間の権利義務関係の確定を目的とする古典的な訴訟事件に限定して、従来通りの「重装備」の手続のまま残し、多様な類型の紛争解決のためには、訴訟手続とは別に弁護士会仲裁センターのような裁判外紛争処理手続(裁判所内ADRを含む)を多数構築し、「司法」にふさわしく、紛争の性質・内容にふさわしい適切な手続的保障を行っていくようにすべきだったのである。重装備の手続で慎重に権利義務関係を検討しなければならない事件と、ラフであっても早く解決すれば良い事件とを、同一の手続の中で、それも数多く処理しようとすれば、いきおい手続がラフに流れるのは当然のことである。

 逆説的であるが、このように、紛争解決システムを裁判所の外に出して官僚司法制度の独占の範囲を小さくし、かつ裁判外紛争処理手続を市民、弁護士の手によって真に市民の利益になるように運営することによって、はじめて裁判所にも市民サイドに立つことの意味・必要性が理解されるようになるのである。そして、裁判所と裁判外紛争処理機関が互いに競い合う形で「司法」の容量が拡大されていくのである。

四 司法相対化論は誤りか

 渡辺洋三教授は、経済同友会「現代日本社会の病理と処方」について、これを「司法相対化論」であるとして批判し、「司法をもっぱら社会内部の多様な紛争解決機関の中の一つとしてとらえ」「裁判による解決を裁判外の解決と同一視し、両者を選択可能なものとすること自体が、司法への認識を誤っている」「立法や行政が、制度的に多数の公共性を視野に入れるのに対し、司法はつねに個人の幸福追求権という憲法的価値を根底の理念としなければならない。この点に、立法・行政と異なる司法の公共性が存在するのである。」(注4)とされる。

 ところで、私が右に述べたような「司法改革構想」は、「司法相対化論」に属するものであろう。はたして「司法相対化論」は、渡辺教授の指摘するように誤りなのであろうか。確かに裁判所固有の役割として、三権分立の見地からの立法・行政のチェック機能や、人権保障機能、さらには憲法の最高法規性を保障するための違憲立法審査権の行使が期待されているのであって、裁判所と裁判外紛争処理機関とを同列に論じる司法相対化論は、裁判所固有の地位・役割を低下せしめるおそれがある。私も憲法が裁判所に与えた固有の役割を充実強化すべきであると考える。しかしながら、裁判所が本来の憲法=人権保障機能を回復するためには、裁判所を官僚司法制度の独占から解放しなければならないのである。

 本来、社会には社会内の紛争解決の自治システムが存在する。中世から近代市民社会が成立するまでの過程においては様々な自治的な紛争解決システムが整備されていった。だからこそ、フランスではいまだにアンシャンレジーム時代に起源を有する商事裁判所や労働審判所が存続しているのであり、イギリスでも一二世紀に起源を有する治安判事裁判所システムが機能している。国法上の裁判所は、これらの自治的紛争解決システムの存在を前提として、それを統合する形で、国法上の一元的な国王の裁判所を作り上げることで確立していった。裁判所が本来の憲法=人権保障機能を回復するためには、裁判外紛争処理システムが有効に機能しなければならない所以である。そして、裁判所に提訴される事件が、慎重を要する、少数の事件に限定されるならば、自ずと裁判所も本来の姿に立ち戻らざるを得なくなるのではあるまいか。

五 私たちのめざすべき司法像

 官僚司法制度に代わる新たな司法像が自治体司法(注5)であり、市民参加司法である。これが民主国家にふさわしい民主的な司法、言い換えれば市民的な基礎を持った司法である。

 1 国家による司法から自治体による司法へ

 すでに繰り返し述べてきたように、裁判外紛争処理機関を多数増設し、その充実を図る必要がある。「充実」とは、裁判外紛争処理機関を単なる業界内システムにとどまらせるのではなく、紛争の性質・内容にふさわしい適切な手続的保障を伴い、かつその担い手として弁護士、市民の参加を確保することであり、「第二の裁判所」とでも言うべきものにすることである。いわば弁護士会仲裁センターのような機関を紛争類型にあわせて設置する。イギリスのトライビューナルや、アメリカのADRのイメージである。

 そして、これらを自治体が運営していくようにすべきである。本来、コミュニティ(地域社会)で生じた紛争は、その紛争に最も身近な存在であるコミュニティが自治的に解決してきたものであるし、またそうすべきなのである。紛争解決機能としての「司法」は、ローカルガバメント(地方政府)の役割でもある。アメリカの市裁判所municipal court やイギリスの治安判事裁判所はその例である。住民の法律相談に応えることが「住民福祉」としての側面を持つのもその故である。したがって、「司法事務」を国の事務とし、地方公共団体の事務から除外している地方自治法二条一〇項一号は改正されなければならない。自治体司法権は、「地方自治の本旨」(憲法九二条)の一内容なのである。このことは、「地方自治の本旨」たる自治立法権、自治行政権を担保するものとしての自治司法権という観念によってのみならず、「司法」の紛争解決機能からも根拠づけられると考える(注6)。

 このように自治体司法権を自治事務の範囲の中に取り込むことができれば、自治体が法律相談所活動を行い、そこで出てきた紛争を自治体と弁護士会による共同仲裁センターで処理し、仲裁センターで処理するのが適当でない紛争は自治体が運営に関与する簡易裁判所で処理することが可能となってくる。本来、簡易裁判所の事物管轄の事件は、国家の裁判所が一元的に取り扱わなければならないような内容のものではない。簡易裁判所の運営に自治体が関与するようになれば、簡易裁判所の統廃合のようなことはせずに、市町村役場に簡易裁判所を併設することも可能となり、まさしく簡易裁判所の発足当初の理念であった「庶民のための裁判所」が実現できるのである。当然のことながら、このような簡易裁判所の裁判官は、官僚裁判官ではなく、次に述べるように弁護士、市民が担い手となるのである。

 2 官僚による司法から市民による司法へ

(一)市民の司法参加

 真に市民のための司法を実現するためには、受益者である市民自身が司法の運営に主体的に参加しなければならない。他人任せ、「お上」任せでは、市民は単なる司法の客体に過ぎない。いかに仕事が忙しくても、司法参加は不可欠であり、市民的義務でもある。だからこそ、比較法的には、法曹一元を採用しているかどうかを問わず、市民の司法参加を認めるのが一般なのである。

 現行制度の中でも、裁判傍聴や、調停委員・司法委員・検察審査会などの制度があるが、是非とも実現しなければならないのが陪審裁判であり、参審裁判である。陪審・参審はいずれかでなければならないというものではなく、刑事の重罪否認事件は陪審裁判で、その他の重要な事件は参審裁判を導入するということも考えられて良い。また、市民の司法参加を第一に考えれば、陪審の答申に必ずしも拘束力を持たせなくてもよい(戦前の旧陪審法)し、参審員に評決権を与えなくても良いのではないか。要するに、司法の担い手に市民を加え、司法官僚層の独占を排除することに意義があるのであって、必ずしも陪審制・参審制の理想形態にこだわる必要はないし、そもそも陪参審制は各国の法文化に支えられた歴史的所産なのであって、「こうあらねばならない」というものはないと思うのである。

 参審裁判からさらに進んで、イギリスの治安判事裁判所(注7)や、フランスの商事裁判所、労働審判所のように、素人裁判官制度も構想されるべきであろう。

(二)法曹一元

 法曹一元とは、弁護士を経験した者の中から裁判官を選任する制度を言う。弁護士は、在野にあって、権力を有しない市民の代理人・弁護人として活動し、裁判官の訴訟指揮に従い、裁判を受ける存在として市民と同質性を持つ、市民社会の構成員である。そのような弁護士から裁判官を選任することは、市民の司法参加の一つとして位置づけられる。英米法系諸国の裁判官採用システムである。

 官僚司法制度の定着した日本で法曹一元を実現するにはどうすればよいか。あるいは、官僚司法制度以外に経験したことのない日本において、完全な意味での法曹一元は実現し得るのだろうか。その一つの方策が一九八九(平成元)年一〇月から実施された弁護士任官制度である。しかし、発足当初の期待に反して、毎年数人が弁護士から裁判官に採用されているだけで、最近に至ってはその数も減ってきている。弁護士を廃業するにあたっての事件・依頼者・事務職員の引継の困難や、官僚組織に入ることの戸惑い、それに加えて最高裁判所による「全人格的総合評価」、いわゆる事実上の任官拒否も影響していよう。

 法曹一元を実現していくためのもう一つの方策が非常勤裁判官制度である。非常勤裁判官制度は、弁護士任官制度と同様、現行法制の枠組の中でも、最高裁判所が採用しようと思えば実現できる。その内容については次項で検討することにして、ここでは最後に官僚裁判官の市民的自由の回復の課題について触れておくことにしたい。

 実は、社会全体が官僚化し、その基盤の中で官僚司法制度が確立した日本において、最も重要な課題が「官僚裁判官の市民的自由の回復」の課題に他ならない。市民の司法参加にしても、法曹一元にしても、「官僚裁判官の市民的自由の回復」の課題に向けられたものと言っても過言ではないのである。法曹一元に代わる新たなシステム、より正確には法曹一元に至る過程のシステムとして、ここでは市民参加や法曹一元的裁判官システムとキャリア裁判官システムとの混合システムを提唱してみたい(注8)。

(三)官僚裁判官の市民的自由の回復ー「法律家」としてのキャリア裁判官へ

 市民による司法の理念は、官僚裁判官を一掃して、すべての裁判官が陪参審員や法曹一元裁判官でなければならないということを必ずしも意味するものではないだろう。官僚裁判官が市民としての立場を取り戻し、「法律家」(注9)として裁判を行うことをめざすべきなのである。ところが、官僚司法制度は、本質的に市民としての裁判官とは緊張関係に立つ。そこで、市民の司法参加や法曹一元の実現が必要とされる。しかし、必ずしも官僚裁判官を一掃して、すべての裁判官が陪参審員や法曹一元裁判官でなければならないものではない。むしろ、社会全体が官僚化し、その基盤の中で官僚司法制度が確立した日本においては、完全な法曹一元を直ちに求めるのは困難ではないか。当面は、市民参加や法曹一元的裁判官システムとキャリア裁判官システムとの混合システムをめざすのが良いのではないだろうか。いずれにしても、司法の運営に参加した市民や弁護士経験者とともに、官僚裁判官自身が司法行政の民主化(注10)を進めるとともに、ヨーロッパに見るように裁判官団体や組合(注11)を結成して市民性を回復し、「法律家」としてのキャリア裁判官に変わっていくことが必要である。それがなければ、結局は、陪参審員や法曹一元裁判官ですら、官僚裁判官に変質していくだけなのである。

<(注1)「裁判を受ける権利」は、通常、具体的に、民事事件及び行政事件については、何人も自己の権利・利益が不法に侵害されていると認めるときは、裁判所に対して、その主張の当否を判断し、正当と認めるならば、その権利・利益の救済に必要な裁判をなすことを要求しうるという積極的内容を有し、また刑事事件については、裁判所の裁判によらなければ刑罰を科されることはないとの消極的内容を有すると説かれる(兼子一=竹下守夫『裁判法[第三判]』一四六頁)。しかしながら、現実には市民の裁判へのアクセスは極めて制限されているにもかかわらず、通説的理解の下では何ら「裁判を受ける権利」の侵害として理解されておらず、「裁判を受ける権利」は市民の権利保障には何の役にも立っていない。「裁判を受ける権利」は、単に裁判へのアクセス権にとどまらず、一定の内実を持ったものとして、裁判手続におけるデゥープロセスと実効的救済を受ける権利を保障したものと理解すべきである(松井茂記『裁判を受ける権利』(日本評論社)(一九九三年)。>

<(注2)「司法権の独立」という命題は、日本においては一度も歴史的に確立されたことのない一片の神話にすぎない。むしろ、その本質である「裁判官の独立」を抜きにして語られる「司法権の独立」は、現実を覆い隠すイデオロギーの役割をすら担っている。残念なことにこの傾向は弁護士会においても見られる。私の立場は、極論するならば、「司法権の独立」よりも「司法の民主化」を重視するものである。そのように考える理由は、ネット四六編『裁判官になれない理由』(青木書店)(一九九五年)一三九頁以下、特に二一七頁以下に記したとおりである。>

<(注3)注1で述べたように「裁判を受ける権利」が紛争の解決のために裁判所で当該事件にふさわしい適正な手続が保障される権利であると解されるならば(芦部信喜「憲法」(岩波書店)一九四頁、松井・前掲書一四九頁参照)、裁判所外にも紛争の性質・内容にふさわしい適切な手続的保障のなされた紛争処理機関を設置していくことは、市民の「裁判を受ける権利」をより実質的に保障する司法政策として是認されるであろう。>

<(注4)渡辺洋三=江藤价泰=小田中聡樹「日本の裁判」(岩波書店)(一九九五年)二八七頁以下>

<(注5)地方分権論議がかまびすしく、地方分権推進法が制定された今日にあっても、「司法」は外交、防衛等と並ぶ「国家の存立に直接関わる政策に関する事務」として捉えられているようである。公法学会でも、「地方自治の本旨」の中に自治体司法権が含まれないことは当然視されているようである。しかしながら、自治体司法権の提唱は、鴨野幸雄『憲法学における「地方政府」論の可能性』(金沢法学二九巻一・二号四四三頁以下)、同『地方自治論の動向と問題点』(公法研究五六号二三頁)、中川剛『地方自治体の司法権』(自治研究五四巻一号六七頁以下)、手島孝『憲法学の開拓線』二六八頁によってなされているところである。最近では、篠倉満『司法と地方自治』(熊本法学七九巻九七頁以下)(一九九四年)が陪審制度をとることを条件に裁判官、検察官の人事を含め司法に関する事務を地方自治体の仕事として降ろすことを提言していることが注目される。篠倉教授は、司法に関する事務は本来国だけがやらなければならないものではなく、わが国でも地方自治体が司法に関する事務を行った歴史があり、明治になって国が司法に関する事務を独占的に掌握するようになったのだと指摘する。>

<(注6)このように考えれば、自治体司法権の管轄を条例違反事件に限定する必要もなくなるし、自治体裁判所を創設するという方向ではなく、簡易裁判所を自治体司法の中に取り込む方向が見えてくるのではないだろうか。また、このように簡易裁判所のあり方を考えたとしても、簡易裁判所は従前通り最高裁判所の系統の中に置かれるのだから、統一的法体系を崩すことにはならない。>

<(注7)イギリスの治安判事の数は、一九九四年中に新たに一五九三名任命され、同年末で三万八八名である。彼らが全刑事事件の約九八%を処理している。イギリスの人口が五七八〇万人(『朝日年鑑一九九五』)であるから、国民二〇〇〇人に一人が素人裁判官として裁判をしていることになる。>

<(注8)小島武司教授は、『非常勤裁判官制度と司法の課題』(法律時報一九九四年六六巻一一号二三頁以下)の中で、キャリア制および法曹一元制のいずれにもそれぞれ独自の価値があり、「少なくとも当面は、キャリア制にも一定の価値があることを認めて、混合システムの可能性を現実のなかで探ってみるのが賢明であろう」とされる。なお、拙稿『国民の司法参加・法曹一元と非常勤裁判官制度』(法律時報一九九四年六六巻一一号三七頁)参照>

<(注9)江藤价泰教授は、「法律家とは、国家権力、とくに執行権に対する関係において、制度的に相対的独立性を有する者であり、かつ、自立的・排他的な内容を有する法的事務を職務として行う者である。」(前掲『日本の裁判』二三六頁)とし、「(フランスにおいては)検察官も政府委員も、いうまでもなく裁判官も、法廷においては、官僚ではなく法律家なのである。(略)裁判制度が、法律家によって担われるものである以上、その象徴ともいうべき法廷に、官僚が存在し、また法廷が官僚によって支配されるなどということは、およそ、フランスにおいては考えられないことなのである。」(同書二六五頁)、「裁判官は、裁判官となる前はもちろん、裁判官となった後も、自由・平等・独立の市民でなければならないのである。」(同書二六八頁)とされる。>

<(注10)司法行政の民主化については、前注2『裁判官になれない理由』二二八頁以下に私見を記しておいた。>

<(注11)ドイツの裁判官の団体活動については木佐茂男『人間の尊厳と司法権』(一九九〇年)一四五頁以下に、フランスの裁判官の組合活動はピエール・リオン=カーン『フランスにおける裁判官の市民的自由と独立』(法と民主主義一九九〇年一月号八頁)、前掲『日本の裁判』二六五頁以下に、イタリアの司法官組合については榎本信行『民主的司法官(MD)を訪ねて』(法と民主主義一九九四年四月号一五頁以下)、MEDEL(ヨーロッパ裁判官組合協会)については環直彌『MEDELに参加して』(前掲法と民主主義三〇頁以下)にそれぞれ紹介されている。なお、ドイツの裁判官の団結権についての最近の議論状況は倉田原志『ドイツにおける裁判官の団結権』(法律時報六六巻一一号六六頁以下)(一九九四年)に紹介されている。これによると、連邦憲法裁判所の予備審査委員会決定(一九八四年)は、労働裁判所裁判官を含む裁判官には団結の自由があり、組合員である労働裁判所裁判官がアクチュアルな労働法上の問題を弁護士とともに一般的に議論していたとしても、労働裁判所の決定を恣意的にするものではないとしたという。このような決定を批判する論者でさえ、裁判官の労働組合活動一般を否定するものではない。>