デニス・リンズは死んでも、マイクル・コリンズは死なず

(あまりにも個人的な追悼文)

 二〇〇五年八月二十一日の朝、おれはいつものようにコンピューターを起動させ、メールをチェックした。MWA(アメリカ探偵作家クラブ)のメーリング・リストで、メロディー・ジョンスン・ハウがデニス・リンズの訃報を伝えた。その訃報には、デニス・リンズ(またの名をマイクル・コリンズ)が八月十九日に死亡したということしか書いていなかったので、インターネットで調べ始めた。
 サラ・ワインマンのブログを見ると、《サンタ・バーバラ・ニューズ= プレス》の死亡記事へのリンクが張ってあった。その死亡記事によると、リンズの長女ケイトがトラックにはねられて、サン・フランシスコの病院に入院したので、リンズが見舞いに行ったときに死亡したとあり、死因は不明だという。

      *      *

 おれが初めてマイクル・コリンズの名前を知ったのは、たぶんコリンズがエドガー新人賞を獲得した『恐怖の掟』を読んだときだろう。しかし、おれはこの作品を六七年刊のハードカヴァーで読んでいないし、ポケミス版が出た六九年にも読んでいない。たぶん、七二年に日本へ一時帰国したときに、大阪駅前の古い旭屋書店で見つけたんだと思う。

 そのあと、ニューヨークへ戻って、《ストランド書店》の古本棚でいろいろな私立探偵小説を買い漁っていると、マーク・サドラーの既婚探偵ポール・ショウものや、ウィリアム・アーデンの産業スパイのケイン・ジャクスンものを見つけた。サドラーはすでに『ここにて死す』がポケミスで訳出されていたが、サドラーやアーデンの正体がマイクル・コリンズだとはまだ一般に明かされていなかった。あのときのおれのカンは今より冴えていたんだねえ。サドラーとアーデンを読んで、“謎のベストセラー作家”がコリンズではないかと疑ったのだ。

 その頃、コリンズとは仲のよいビル・プロンジーニがどっかのファンジンでサドラー= コリンズと明らかにしていたので、確認が取れた。当時の《マーダー・インク》の女店主ディリス・ウィンに、「サドラーはコリンズだよ」と教えたことは覚えている。

 おれがしつこくジョン・クロウ名義のブエナ・コスタ郡ものを『ミステリマガジン』で紹介するので、ポケミスで『もうひとつの死』と『暗闇の感触』が出た。そして、おれがコリンズ名義のフォーチューンもの長篇第二作『真鍮の虹』と、第三作『ひきがえるの夜』と、第四作『黒い風に向って歩け』を翻訳させてもらうことになった。

 初めて彼と会ったのは、八〇年代半ばだろう。八五年にウェスト・コーストをまわって、マーク・ショアやロジャー・サイモン、ビル・ゴールト、ウィリアム・ノーラン、ビル・プロンジーニ、ジョー・ゴアズなどの作家と会い、インタヴューをさせてもらった。『ミステリマガジン』八五年八月号にマイクル・コリンズとのインタヴュー記事が載っているはずだ。

 そのとき、おれと小鷹信光さんはサンタ・バーバラのモーテルに泊まっていて、コリンズがおれを迎えに来てくれた。初めて会ったときの印象は、すごく背の高い人だなあと思ったことだ。彼はカウボーイ・ハットをかぶり、ウェスタン・ブーツをはいていた。おれは小鷹さんと別れ、コリンズと一緒に近くのレストランでランチを食べた。そのとき、当時は婚約者で(現在は三番目の奥さん)ゲイル・ストーンも一緒だった(八六年に結婚)。食事のあと、コリンズのアパートメントへ行って、インタヴューをした。その数カ月前に地震があって、『恐怖の掟』でもらったエドガー像が割れたとか言ってたっけ。

 マイクル・コリンズ(およびゲイル・リンズ)とは十年以上もクリスマス・カードを交換しているが、最近はゲイルが一家の近況を書いてきてくれる。九〇年半ばにインターネットが普及して、おれはコリンズよりもゲイルとよくメールのやり取りをするようになった。二〇〇三年にはコリンズとゲイルがラズ・ヴェガスで開かれる《バウチャーコン》に出席すると聞いて、再会できると期待していたのだが、ゲイルしか来なかった。コリンズは病気で来られないということだった。

 コリンズの訃報のあと、デニス・リンズがミステリ界で思ったよりも多くの作家仲間たちに慕われていたことがわかって、すごく嬉しかった。というのも、最近はコリンズの長篇小説がなかなか大手の出版社から刊行されていなかったから、忘れ去られているかもしれないと、余計な心配をしていたからだ。

 デニス・リンズが病気ながら、比較的に幸せな老後生活を送れたのは、ゲイルのおかげだろう。最後の「作品」はハードボイルド系ウェブサイト The Thrilling Detective に「発表」したダン・フォーチューンの「一般教書演説」である。フォーチューンはアメリカが警察国家になりつつあることを憂いていたのだ(デニスはアメリカ民主社会党員であった)。予定されているスロットマシーン・ケリーもの短編集や、デニス・リンズ作品選集は死後刊行になるのだろう。

      *      *

 この追悼文の第一稿を書き終えたところで、ゲイルからミステリ界の関係者に複数メールで礼状が送られてきた。AP電や《LAタイムズ》の死亡記事よりも、家族の説明のほうがより正確だろう。デニス・リンズの長女ケイト(サン・フランシスコ公立図書館の司書)が十八日に病院で緊急の脳手術を受けた。デニスとゲイルはケイトを見舞うために、早速サンタ・バーバラからサン・フランシスコへ飛んだ。デニスはこの二年のあいだいくつかの手術を受けていて、体調が悪かった。サン・フランシスコの空港で気分が悪くなり、カリフォーニア大学サン・フランシスコ校医療センターの駐車場で倒れた。八月十九日、昏睡状態のケイトの病室の真上にある病室で家族に見守られながら、デニス・リンズは息を引き取ったのだ。死因は敗血性ショックだという。享年、八十一歳。
 六〇年代から私立探偵小説を長く書き続けてきた作家がまた一人亡くなった。ミステリ界は優秀な作家をまた一人失った。そして、おれは大事な友人をまた一人失った。\\



これは木村二郎(翻訳家)が『ミステリマガジン』2005年11月号に発表したマイクル・コリンズ追悼文を少し書き直したものです。

日本版ホームページへ

国際版ホームページへ