怪盗ニック全仕事の始まり始まり

(エドワード・D・ホック『怪盗ニック全仕事1』解説)

怪盗ニック全仕事1  エドワード・D・ホック愛読者の皆さんは、本書のタイトルを見て、さぞ驚かれたことだろう。

 そう、怪盗ニック短編集が創元推理文庫より刊行されるのである。しかも、全八十七編ある怪盗ニックものの短編を一巻につき十四編か十五編を順番に収録し、全作品を六巻に分けて刊行される。ハヤカワ文庫から怪盗ニックもの第四短編集『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』が刊行されたのが二〇〇四年だから、十年ぶりの登場である。

 第一巻には十五編収録されていて、新訳(すでに翻訳があるものを本書の訳者が新たに訳したもの)が六編と、改訳(旧短編集の新訳を含め、訳者自身の翻訳を改めて訳し直したもの)が九編あり、初訳(初めて日本語に翻訳したもの)はない。しかし、訳者は自身が翻訳したものを改めてコンピューターに入力しながら大幅に訳し直しているし、新しい編集者と校正者の厳しいチェックがはいっているので、雰囲気は旧訳とほとんど変わっていないが、細かい言葉遣いはかなり異なっているはずである。

 この翻訳作業で、訳者自身も新たに気づいた箇所が多いので、何年も前に読んだことがある方も読み返してみると、新しい発見があるだろう。現金や宝石や美術品などの価値あるものはけっして盗まず、価値が(ほとんど)ないと思われるものしか盗まないユニークな怪盗ニック・ヴェルヴェットに馴染みのない方には、新鮮な目と偏見のない頭で読んでいただければ幸いである。

 しかし、いちおう、新しい読者のために怪盗ニックについて述べてみよう。

 一九七一年に刊行された英国諜報部暗号解読専門家ジェフリー・ランドものの短編と怪盗ニックものの短編とが七編ずつ収録された短編集 The Spy and the Thief の編纂者エラリー・クイーン(実際はフレデリック・ダネイのほう)が書いた怪盗ニックの「素姓調査報告書」から抜き出してみよう。


 ニックの生年月日は一九三二年三月二十四日で(しかし、作者のホックによると、七〇年代後半から四十五歳以上には年を取らなくなっているという。中期作品から年齢に関する記述がない)、本名はニコラス・ヴェルヴェッタ。そう、本名からわかるように、イタリア系である。ニューヨーク市マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジ地区に住んでいたイタリア系の両親から生まれた(商店主の父親は地元の政治活動にかかわっていた)。少年時代はまだイタリア人に対する偏見が存在していたのか、ニックは姓をアングロ=サクスン名に聞こえるヴェルヴェットに変えた。

 一九五〇年、十八歳のときに、高校を中退し、陸軍に入隊して、朝鮮戦争に参加した。除隊後、昼間はニューヨーク市の北にあるウェストチェスター郡のマリーナで働き、夜間高校に通って、高校課程を修了した。いろいろな仕事を経験したあと、偶然にも犯罪の道を歩むことになった。依頼で変わったものを盗み、最低二万ドル(危険な仕事の場合は三万ドル)を要求することで、十二分に快適な生活が送れることを知ったのだ。しかし、中期作品から手数料がだんだん高くなっていく。

 いかつい顔ながらも、ハンサムで、髪は黒く、目は茶色、身長は六フィート強(一八三センチ以上)で、体格はよい。初期作品では四十歳近くだったが、年下の連中にもできそうにないアクロバティックな離れ業もこなしてみせる。ほとんどの場合は単独で行動するが、仕事を遂行するために協力者を雇うこともある。通常は本名を使うが、ミスター・ニコラスという偽名を使って、不動産屋とか、記者とか、物書きを装うこともある。

 独身だが、ロング・アイランド・サウンドという小海峡(ニューヨークのマンハッタン島の東にある横に長いロング・アイランドと、コネティカット州にはさまれている)を臨む小さな町に、三十代のガールフレンド、グロリア・マーチャントと一緒に住んでいる。初期作品では、ニックが新しく建設する工場の候補敷地を世界じゅうで捜しまわる企業コンサルタントなので、しょっちゅう家を留守にしているものと、グロリアを思い込んでいる(ある作品でニックの正体がばれるのだが、それについては後続巻で述べる)。グロリアだけがニックを“ニッキー”と呼び、スループという小型帆船を操るニックとは、ボート遊びを共通の趣味としている。

 ニック・ヴェルヴェットはホックが創造した数多くのシリーズ・キャラクターのうちでもっとも人気が高い。しかも、価値のないものしか盗まない泥棒というユニークさも備ええている。価値のないものしか盗まない大きな理由は、高価なものを盗んでも、ニックにとっては、ありふれていて退屈だからだ。それに、万が一つかまったとしても、被害額がごく少ないので、罪が軽いということもある。フランスではTV番組になったらしいが、アメリカ本国では、ニックが窃盗を働いたことに対して罰せられないという倫理的な理由で、なかなかTVドラマ化されないという。

 以上の大半は、編纂者クイーンが書いた「報告書」の受け売りだが、ニックものの短編には生年月日などの詳しい「個人情報」がどこにも記していないので、創造主のホック自身がクイーンに伝えた情報だろう。

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 それでは、この第一巻に収録されたいくつかの作品について、注釈を加えてみよう。  第一話の「斑の虎を盗め」は、まさにニックが初登場する作品で、ニックがガールフレンドのグロリアと一緒にビールを飲みながら、フロント・ポーチのステップにすわって、工員たちが帰宅する姿をながめる場面から始まる。

 一九六五年、ホックは英国諜報部の暗号解読専門家ジェフリー・ランドものの短編をエラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン(EQMM)に三編発表し、同誌のために二つ目のシリーズ・キャラクターを創造しようと考えていた。六五年は、イアン・フレミングのジェイムズ・ボンド小説が大人気で、ボンド映画『サンダーボール』が大成功を収めた年である。ホックが『怪盗ニックを盗め』(ハヤカワ・ミステリ)に書いた「序文」によると、ボンドに匹敵するキャラクターを創造するつもりだったが、そのキャラクターが一人歩きして、ボンドとはずいぶん掛け離れた怪盗になり、盗むものがだんだん異様になってきたという。そして、第一編「斑の虎を盗め」がEQMMが六六年九月号に掲載され、人気を博した。犯罪ものと謎解きものとアクションものの要素が混じり合ったシリーズになったのだ。

 ニックが斑の虎を盗む前に、「中世美術館からは……を盗んだ」という箇所がある。この〈中世美術館窃盗事件〉は、ホックのノンシリーズ短編集『夜はわが友』(創元推理文庫)に収録された「キャシーに似た女」の内容にそっくりなのだ。主人公の名前はニックでもないし、文章は一人称記述だが、ニックものの原型と考えられる。しかも、発表されたのが、「斑の虎を盗め」掲載月より一カ月遅れの《シグニチャー》六六年十月号だった。

 第二話の「プールの水を盗め」の原題は、The Theft from the Onyx Pool(瑪瑙のプールから盗め)という。シリーズのタイトルのほとんどが The Theft of the...(羅列するときには、便宜上、TTOT と略する)から始まっているが、これは珍しく The Theft from the...というふうに、of ではなく from になっているのだ(同じ例のタイトルがもう一つある)。

 第四話の「真鍮の文字を盗め」では、ニックの正体を知っている元ニューヨーク市警刑事のチャーリー・ウェストンが登場する。ここでは、北東部ニューインランド地方の中都市イーストブリッジ市警窃盗課の警部補になっている。ニックが盗む真鍮の文字を慣例に従った縦組みではなく、縦書きでは少々読みにくい横組みにしたことをお断わりしておく。このほうが謎解きにフェアだと判断したからである。

 第五話の「邪悪な劇場切符を盗め」では、『ウィッキッド』という芝居が言及される。もちろん、グレゴリー・マグワイアの『オズの魔女記』(ソフトバンク・クリエイティブ)の舞台版『ウィキッド』とは同名異作である。ホックが描く六〇年代後半のグリニッジ・ヴィレッジやタイムズ・スクウェアの情景が興味深い。現在のタイムズ・スクウェアには、「ポルノ書店、セックスと罪を派手に宣伝する庇がついた映画館」がなくなったし、ヴィレッジにはLSDという幻覚剤を摂取するようなヒッピーたちがいなくなってしまった。

 第六話の「聖なる音楽を盗め」の英語タイトルはいちおう TT0T Sacred Music にした。これはいつものEQMMではなく、《マイク・シェイン・ミステリー・マガジン》(MSMM)六九年九月号に掲載されたのだ(おやっ、前話の「劇場切符〜」とは雑誌は違っても同月の発行ではないか!)。イギリスでは《アーゴシー》六九年十二月号に掲載されたが、タイトルの頭には定冠詞の The がついていない(ほかにもイギリス版タイトルで同じ例が二つある)。

 この短編を編集責任者のエラリー・クイーンがどうしてEQMMに採用しなかったのか不明だが、ニックの少年時代のことが書かれていて興味深い。ニックはパークハーストという中西部の町へ行く。そこは、ニックの生まれ故郷であるグリニッジ・ヴィレッジよりも、育った町によく似ていた。「ニックの父親はイタリア人の商人で、禁酒法廃止の数カ月前に(一九三三年)、ギャングスターの十字放火に遭って死んだ。ニックはおばと住むために西部に移った」とある。ニックの父親の死因について書かれた箇所はシリーズ全体の中でもここだけである。

 第七話の「弱小野球チームを盗め」では、ニックが朝鮮戦争(一九五〇〜五三)に参加したときの描写がある。「しかし、朝鮮戦争中の短いあいだを除いて、陸軍輸送機よりも大きな飛行機を一度も操縦したことがないのだ」とあるから、戦争中は大型飛行機を操縦したことがあるということだ。しかも、ニックが射撃の名手であることもわかる。ニックが訪れた架空の国ハバリでは、数字の9にこだわっている。この作品の掲載二年後(一九七一年)、編集責任者でもあるクイーンが発表した『心地よく秘密めいた場所』でも数字の9にこだわる記述が多く見られる。

 第八話の「シルヴァー湖の怪獣を盗め」はイギリス版《アーゴシー》に掲載され、タイトルの頭には定冠詞の The がついていないが、本書では定冠詞をつけて、ほかの作品との統一性を保った。『サイモン・アークの事件簿4』(創元推理文庫)に収録された「ドラゴンに殺された女」も、湖に大海蛇が出る話である。「ドラゴン〜」のほうは一九五八年発表で、「シルヴァー湖〜」より十二年も前の作品だ。そこでは、大海蛇とドラゴンとの違いをていねいに説明してくれている。

 第十話の「囚人のカレンダーを盗め」のアメリカ版タイトルは、TTOT Coco Loot(〈ココ号〉の略奪品を盗め)だが、それではニックが価値あるものを盗んでいるようだし、内容がわかりにくいので、イギリス版タイトルの頭に定冠詞をつけて、TTOT Convict's Calendar のほうを英語タイトルに採用した。

 訳者は作品をいちおうざっと訳したあと、自身の訳に間違いがないか確かめるために、村社伸氏の旧訳を読んでみた。そこで、大きな違いに気がついた。訳者はクイーン編の The Spy and the Thief に収録された作品を基に訳していたが、旧訳のほうが結末が長いのだ! 旧訳はEQMM七〇年九月号掲載の初出作品を基にしているので、訳者はさっそく初出誌を取り寄せて、本書収録どおり、最後の三行を付け加えた。本書では、いちおう読者の皆さんが判断できるように、長いヴァージョンを採用した。作品の構成上は短いヴァージョンのほうがすっきりしているが、ニックを善良な怪盗にするのなら、初出のままのほうがいいかもしれない。

 第十一話の「青い回転木馬を盗め」では、ニックがメリーゴーラウンドの木馬にまたがるときに、「真鍮の輪をつかめるかな?」と言う。メリーゴーラウンドの“真鍮の輪”に馴染みのない日本人読者の皆さんには、その説明をしておいたほうがいいだろう。ひと昔前のメリーゴーラウンドには、外側の木馬(そのほとんどは上下に動かない)に乗ったまま、腕木の先についたディスペンサーから金属の小さな輪をつかみ取るタイプがあった。金属の輪のほとんどは鉄の輪であり、少しだけ真鍮の輪が混じっている。それがつかみ取れたら、無料でもう一度木馬に乗れるのだ。それが転じて、go for the brass ring という慣用句は「チャンスや成功を目指す」という意味になり、get the brass ring は「成功を収める」という意味になった。

 J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』では、ホールデンは妹のフィービーがセントラル・パークのメリーゴーラウンドで黄金の輪(実際は真鍮の輪)をつかもうとするのを心配そうに見つめる。しかし、ホールデンとフィービーが見た真鍮の輪ディスペンサーつきのメリーゴーラウンドは一九五〇年に焼けて、ディスペンサーなしのものと取り替えられた。今では、真鍮の輪ディスペンサーつきのメリーゴーラウンドはアメリカでもごくわずかにしか存在しない。最近の遊園地では、メリーゴーラウンドの人気が落ちてきているらしいが、今世紀になって真鍮の輪ディスペンサーをつけたら、人気があがったという話もある。そうそう、鉄の輪をつかんだら、どうするか? メリーゴーラウンドの近くに大きく口をあけた道化師の顔を描いた大きな造形があり、その口の穴に鉄の輪を投げ込んで遊ぶのだ。

 第十三話の「陪審団を盗め」には、イーストブリッジ市警のチャーリー・ウェストン警部補が再登場する。この作品には迷路の庭園が出てくるが、ホックはよっぽど迷路に特別な関心を寄せているのか、『サイモン・アークの事件簿4』収録の「ロビン・フッドの幽霊」にも迷路が出てきて、迷路の種類や人身牛頭の怪物ミノタウロスについて説明してくれる。

 第十五話の「七羽の大鴉を盗め」では、ニックはロンドンに飛び、大鴉(レイヴン)とからす(クロウ)の違いを教えられる。大鴉はミステリーに深い関わりがある。「大鴉」The Raven はエドガー・アラン・ポオが書いた有名な物語詩であり、ポオがメリーランド州ボルティモアで亡くなったので、ボルティモアを本拠地とするフットボール・チームの名前は Ravens(NFLジャパンでは「レイブンズ」と表記。「レーベンス」と表記するスポーツ紙もある)という。動物の群れを示す名詞を「集合名詞」と呼ぶが、大鴉の群れは an unforgiveness of ravens という。ルース・レンデルのレジナルド・ウェクスフォード主任警部ものにもそんなタイトルがあった(『無慈悲な大鴉』ハヤカワ・ミステリ刊)。ちなみに、からすの群れは a murder of crows という(嘘のような本当の話!)。

 それでは、最後に、サム・ホーソーンやサイモン・アークの短編集と同じように、ニック・ヴェルヴェット・シリーズの最新チェックリストを挙げておこう。

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[註=完全チェックリストを見たい方は、現物の巻末を参照してください。]

二〇一四年十月



これは木村二郎名義で翻訳したエドワード・D・ホックの『怪盗ニック全仕事1』(創元推理文庫、2014年11月刊、1160円+税、電子書籍もあり)の巻末解説であり、自称研究家の木村仁良が書いている。このあと、『怪盗ニック全仕事』が6巻まで続きます。どうぞよろしくご声援をお願いします。(ジロリンタン、2015年4月吉日)

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