名無しの探偵の本名はビル・プロンジーニ?

(『凶悪』解説)

凶悪  

本書『凶悪』(原題:Hardcase)はビル・プロンジーニが一九九五年に発表した名無しの探偵ものの長編二十二作目である(なお、原題の Hardcaseには、もちろん「難事件」という意味があるが、「手に負えない凶悪犯」という意味もある)。日本でこの前に名無しの探偵(以下、名無し)ものの長編が紹介されたのは、八八年刊の十六作目『報復』(徳間文庫より九〇年訳出)だから、十年ぶりの登場ということになる。  

しかし、そのあいだも、本書のあともプロンジーニは一年に約一作のペースでこのシリーズを書き続けているのである。そのうえ、名無しものの中短編もときおり発表している。この十年のあいだに日本で紹介された短編は、「ネコは幽霊がきらい」(『ミステリマガジン』[HMM]九二年三月号↓『猫の事件簿』二見文庫)と「魂が燃えている」(HMM九八年一月号)と「悩める母親の依頼」(EQ九八年十一月号)の三編しかないが、アメリカでは十編ばかりの中短編を発表していて、九六年には名無しものの第二短編集 Spadework を刊行した。

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そういうわけで、日本には「名無しの探偵」を知らないという方がたくさんおられるので、紹介してみよう。  

名無しの探偵は原書では "Nameless Detective" と記されている。「名無しのオプ」としばしば誤記されているが(原書には op という単語は出てこない)、オプ(op)とは operative (オペラティヴ。ダシール・ハメットは「オペレイティヴ」と発音したらしい)の短縮形で、本来は探偵社の雇われ探偵のことを指す。それで、コンティネンタル探偵社に務めるハメットの探偵は、「コンティネンタル・オプ」と呼ばれるのである。  

プロンジーニはハメットやレイモンド・チャンドラーに大いに影響を受けている。それで、ハメットの名無しの中年探偵にあやかって、自分の探偵に名前を与えなかったんだと考える人は多いが、プロンジーニはこう言っている。「名前がついていない理由は適当な名前が考えられなかったからだ。一作目を書いている時、いい名前が浮かんでこなかった。おれ自身にほかの名前をつけるようなもんだな。彼の本当の名前はビル・プロンジーニなんだ」(木村二郎著『尋問・自供』[早川書房]収録のインタヴューを参照)  

それで、コリン・ウィルコックスとの共作『依頼人は三度襲われる』(七八年刊の五作目)では、ウィルコックスのヘイスティングズ警部補が名無しのことを「ビル」と呼んでいる。九八年刊の二十五作目 Boobytrap ではチャック少年が名無しを「ビル」と呼んでいる。そして、名無し自身が自分のことをイタリア人だと言っているので、やはり名無しの本名はビル・プロンジーニなのだ。ちなみに、マーシャ・マラーとの共作『ダブル』(八四年刊の十三作目)では、マラーの探偵シャロン・マコーンは名無しを「ウルフ」と呼んでいる。しかし、プロンジーニの名無しの探偵は、ハメットのコンティネンタル・オプよりも、むしろトマス・B・デューイの名無しの探偵“マック”(『非情の街』ハヤカワ・ミステリ、『涙が乾くとき』河出書房新社)に近い。  

名無しはサン・フランシスコのノエ・ヴァレー地区で育ち、大学を中退して、陸軍では軍事諜報部の下士官として勤める。サン・フランシスコ市警で十五年勤務してから(最後の四年間は殺人課刑事)、独立する。趣味はパルプ・マガジン収集(本書で結婚するケリーと出会ってからは、パルプ・マガジンを読む場面は無きに等しい)と釣りとスポーツ観戦とフィルム・ノワール鑑賞。事務所にバーボンのびんは置かず、普段はビールを飲む。 名無しが初めて登場した作品は、《アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリー・マガジン》(AHMM)六八年八月号掲載の「誤射」(HMM八四年十一月号)である。七〇年以前に登場して、今もなお現役を続けている数少ない私立探偵の一人である(ほかには、ミッキー・スピレインのマイク・ハマー、マイクル・コリンズのダン・フォーチューン、ジョー・ゴアズのDKA探偵事務所の回収員たち)。そして、AHMMに掲載された数編の作品に登場したあと、AHMM六九年五月号に掲載された短編を長編化した一作目『誘拐』を七一年に発表し、七三年には二作目『失踪』と三作目『殺意』を上梓した。そのあとは、AHMMのほか、《エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン》、《マイク・シェイン・ミステリー・マガジン》、《アーゴシー》などに中短編を寄稿しながらも、一年に約一作のペースで長編を発表する。『小説新潮』には書き下ろし中編を四編寄稿したこともあるし(八四年に中編集『名無しの探偵事件ファイル』にまとめられる)、中短編を長編化することもたびたびある。  

初期はヘヴィー・スモーカーだったので、肺癌を心配してたのだが、七七年刊の四作目『暴発』で良性の腫瘍だとわかり、そのあとは禁煙する。八四年刊の十二作目『亡霊』より、警察学校からの親友で、サン・フランシスコ市警殺人課の警部補だったエバハートをパートナーにするが、喧嘩別れをして、現在では元の一匹狼に戻った。

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本書で名無しは六十歳に手が届く年齢に達し、八一年刊の七作目『脅迫』で出会ったケリー・ウェイドとついに結婚式を挙げる。しかし、二人はめいめいの住居を手放していないから、住居は二つあるわけだ。  

もう一つの劇的な変化は、名無しがパートタイムでコンピューター専門家を雇うことだろう。最近の探偵捜査がコンピューターなしでは不可能であることに、名無しもついに気づいたのだ。  

本書の第一章で、「三カ月も山小屋の壁にチェーンでつながれたまま、生き延びたこともある」とあるが、これは八八年刊の十六作目『報復』での出来事である。  

そのあと、「ケリーがボビー・ジーンと話をして、たとえエブが来なくても、彼女には来てほしいと言ったんだ」と名無しが言う。“エブ”とは、かつての親友であり、パートナーだったエバハートのことである。エバハートはデイナと離婚したあと、オツムの弱いワンダと付き合っていたが、ついに不動産ブローカーのボビー・ジーンと結婚した。そして、名無しとの仲は悪くなり、九七年刊の二十四作目 Illusions でエバハートは「自殺」する。

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ビル・プロンジーニが講談社文庫に長編で登場するのは初めてなので、著者紹介をしてみよう。  

ウィリアム(通称ビル)・ジョン・プロンジーニは一九四三年にカリフォーニア州ペタルーマに生まれた。サンタ・ローザ短期大学を中退してから、六〇年まで《ペタルーマ・アーガス・クーリエ紙》で記者として勤務する。作家をめざし、六五年に短編がやっと雑誌に売れる(《シェル・スコット・ミステリー・マガジン》六六年十一月号掲載のYou Don't Know What It's Like)。そのあと、新聞売り、倉庫番、タイピスト、セールスマン、連邦保安官事務所の民間警備員などの職を転々としながら、小説を書き続ける。  

処女長編は七一年刊のサスペンス小説 The Stalker で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞にノミネートされる。そして、同年に名無しの探偵もの長編第一作『誘拐』も発表する。六六年に一人目の妻ローラと離婚したあと、マジョルカ島に移り、そこで知り合ったツアー・ガイドのブルーニと一緒にドイツに行って、七二年に結婚する。七四年に二人目の妻ブルーニと一緒にサン・フランシスコに戻り、執筆活動を精力的に続ける。  

アレックス・サクスンとか、ジャック・フォックス(冒険者ダン・コネルもの)というペンネームも使って、名無しの探偵もののほか、サスペンス小説(『パニック』TBS出版会、『マスク』創元推理文庫)、ウェスタン小説、SF小説、ホラー小説を書き続け、ロバート・ハート・デイヴィス(チャーリー・チャンもの中編)とか、ブレット・ハリデイ(マイク・シェインもの中編)というハウス・ネームも使った。  

ほかの作家との共著も多く、マーシャ・マラー(『ダブル』)やコリン・ウィルコックス(『依頼人は三度狙われる』)のほか、バリー・N・マルツバーグ(『裁くのは誰か?』創元推理文庫、『決戦! プローズ・ボウル』新潮文庫)、ジョン・ラッツ、ジェフリー・ウォールマン、政治コラムニストのジャック・アンダースンとも共作している。  

編纂者としても有名で、七六年刊の『現代アメリカ推理小説傑作選1』(立風書房)が彼の編纂した初めてのアンソロジー(ジョー・ゴアズとの共編)で、そのあと、単独でも共同でも(共編者はマラー、マルツバーグ、エド・ゴーマン、マーティン・H・グリーンバーグなど)アンソロジーを数え切れないほど多く編纂していて、『エドガー賞全集』(早川文庫)と『1ダースの未来』(講談社文庫。マルツバーグとの共編)が日本でも紹介されている。  

ミステリー研究家でもあり、八二年刊の Gun in Cheek: A Study of "Alternative" Crime ではB級ミステリーの歴史を書いて、MWAのエドガー評伝賞にノミネートされた(八七年に続編 Son of Gun in Cheek を、九六年にウェスタン編 Sixgun in Cheek を上梓)。八六年刊の 1001 Midnights: The Aficionado's Guide to Mystery Fiction をマーシャ・マラーと共同監修して、これもエドガー評伝賞にノミネートされた。  

八一年刊の名無しものの七作目『脅迫』と、八三年発表の短編「ライオンの肢」(HMM八三年十月号)と、九八年刊の Boobytrap でアメリカ私立探偵作家クラブ(PWA)よりシェイマス賞を受賞した。そして、八七年にはPWAより功労賞ともいうべきジ・アイ賞を受賞。  

九〇年代にはいってからも、プロンジーニの執筆量は減少せず、名無しの探偵もののほか、ノンシリーズのサスペンス小説(九七年度エドガー賞候補作の『よそ者たちの荒野』ハヤカワ・ミステリ)や短編ミステリーを書き続けている。九二年に、『ダブル』の共著者であるマーシャ・マラーとついに結婚し、サン・フランシスコ近郊のソノマ郡ペタルーマに住んでいる。\\

[名無しの探偵もの単行本リスト]
1 The Snatch (1971)『誘拐』新潮文庫
2 The Vanished (1973)『失踪』新潮文庫
3 Undercurrent (1973)『殺意』新潮文庫
4 Blowback (1977)『暴発』徳間文庫
5 Twospot (1978)『依頼人は三度襲われる』文春文庫 コリン・ウィルコックスと合作(ヘイスティングズ警部補と共演)
6 Labyrinth (1980)『死角』新潮文庫
7 Hoodwink (1981)『脅迫』新潮文庫 シェイマス賞受賞
8 Scattershot (1982)『迷路』徳間文庫
9 Dragonfire (1982)『標的』徳間文庫
10 Bindlestiff (1983)『追跡』徳間文庫
* Casefile (1983) 第一短編集
11 Quicksilver (1984)『復讐』新潮文庫
12 Nightshades (1984)『亡霊』徳間文庫
13 Double (1984)『ダブル』徳間文庫 マーシャ・マラーと合作(シャロン・マコーンと共演)
* Nameless Detective's Casefile (1984)『名無しの探偵事件ファイル』新潮文庫 日本で独自に編纂した中編集(四編収録)
14 Bones (1985)『骨』徳間文庫
15 Deadfall (1986)『奈落』徳間文庫
16 Shackles (1988)『報復』徳間文庫
17 Jackpot (1990)
18 Breakdown (1991)
19 Quarry (1992)
20 Epitaphs (1992)
21 Demons (1993)
22 Hardcase (1995)『凶悪』講談社文庫 本書
23 Sentinels (1996)
* Spadework (1996) 第二短編集
24 Illusions (1997)
25 Boobytrap (1998) シェイマス賞受賞
26 Crazybone (2000)

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これは木村二郎名義で翻訳したビル・プロンジーニの『凶悪』(講談社文庫、2000年6月刊)の巻末解説であり、自称ミステリー研究家の木村仁良が書いている。著者紹介で、プロンジーニがシェイマス賞を二度受賞というのは間違いで、実際は三度受賞(長編で二度、短編で一度)。(ジロリンタン、2000年6月吉日)

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