モウゼズ・ワイン、九年ぶりの登場

(『誓いの渚』解説)

誓いの渚  

本書 The Lost Coast は、ロジャー・L・サイモンが一九九七年に発表した私立探偵モウゼズ・ワインものの長編七作目であり、八八年刊の前作『エルサレムの閃光』(ハヤカワ・ポケット)よりなんと九年ぶりの長編小説なのである。  
わざわざ「長編小説」と書いたのは、ジェローム・チャーリンが編纂した九三年刊の国際推理作家協会アンソロジー『ニュー・ミステリ』(早川書房)にワインものの短編「ノーと言おう」(時代設定は一九七八年)を寄稿しているからである。  
モウゼズ・ワインは七三年刊の『大いなる賭け』(ハヤカワ・ポケット)で衝撃的なデビューを果たした。ワインは「七〇年代のフィリップ・マーロウ」であり、その頃マンネリズムに陥っていた私立探偵小説にショックを与えた。ソフト帽をかぶり、トレンチ・コートを羽織るそれまでのハードボイルド探偵は、三〇歳以上の「体制派」であり、もう時代遅れであった。そこに、ネクタイも締めないカジュアルな格好の新しい探偵が登場したのだ。  
ロックを聴き、マリワナを喫ってはいるが、現実的な政治問題や社会問題について自分の意見を持っている。それに、七三年当時、普通の若者が使っていたワイセツ語をミステリー小説で使ったのは、サイモンがたぶん初めてだろう。それまで妻と別れた探偵はいたが(ロス・マクドナルドのアーチャーとか)、子守りをする探偵はいなかったし、自分の子供のことを真剣に考える探偵もいなかった。  
子守りをする探偵なんて、ヒーローでもハードボイルドでもない、と当時の日本の評論家はクソミソにけなしたものだ。サイモン自身、ワインのことを「ハードボイルド探偵」だとは考えていない。理想的なヒーローではなく、等身大の現実的な男として描いているのかもしれない。もちろん、ワインは作者サイモンの分身である。
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モウゼズ・ワインものの前六作を読んでいない新しい読者のために、ワインを簡潔に紹介しよう。  
七三年刊のデビュー作『大いなる賭け』の巻末に冗談半分の「私立探偵許可証申請書」が付いているので、それを参考にすると、ワインの生年月日は一九四一年十一月四日。六八年から七〇年までコンティネンタル・オペラティヴズ(ダシール・ハメットのコンティネンタル・オプと同じ探偵社)で四二五〇時間、調査員助手として働いた。元過激派で、姓から推測できるようにユダヤ系。ロス・アンジェルス大学バークレー校のロー・スクールを中退。小銃の射撃と空手が得意。スザンヌと離婚し、ジェイコブとサイモンという二人の息子がいる。  
というわけで、『大いなる賭け』の最後にワインがつぶやく台詞を引用させていただく。
  おれは、膝の上で眠っているジェイコブ に目をやった。サイモンは、親指をしゃぶりながら、ソファのはしで丸くなっている。父親になることは、難しい仕事だ。プロカリがやったように、おれも、無意識のうちに息子たちの心をゆがめているのだろうか。そうは思いたくなかった。
 
このとき、ワインの長男ジェイコブは四歳で、次男サイモンは一歳だった。そして、九七年刊の本書で、そのサイモンは二十歳になってしまった。しかも、《地球守護隊》という過激な環境保護グループの一員であり、樵を殺害したという容疑でFBIに指名手配されるのだ。『大いなる賭け』では、元学生運動家のしがない私立探偵だったワインは、本書で〈MW調査サーヴィス〉という探偵事務所の所長に「出世」している。そして、もうすぐ五十に手が届くというので、中年の危機をなんとか乗り超えようと努めている。  
そのデビュー作では、ワインと離婚して、東洋宗教の教祖と同居していた救いようのない元女房スザンヌは、弁護士資格を取り、ニュー・メキシコ州のサンタ・フェで法律事務所を構えている(七九年刊の『ペキン・ダック』では、ロー・スクールに通っていた)。そして、長男のジェイコブはニューヨークで作家修業をしている。
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本書には説明不足の点がいくつかあるので、注釈が必要かもしれない。  
第一章に、「ロス・アンジェルスで、反戦派上院議員が《ウェザー・アンダーグラウンド》の過激なリーダーに支持されていると見せかけて、数人のギャンブラーがその議員の選挙運動を妨害しようと試みた陰謀を、おれは暴いた」とあるが、その経緯は一作目『大いなる賭け』に詳しい。  
そのあと、「そして、《ローリング・ストーン誌》に書きたてられて、名声の十五分間を費やした。『人民の探偵----モウゼズ・ワインとの密着捜査』」とあるのは、六七年刊の『ワイルドターキー』でワインがジャーナリストに取材されたことを示している。  
第七章に、「おれはチューリップ・コンピューターでしばらく働いていたが、そこをやめてから、もう十年たつ」とあるのは、八五年刊の『カリフォルニア・ロール』でワインがシリコン・ヴァレーのコンピューター会社(アップル・コンピューターにそっくり)の保安部長として雇われ、「体制」に魂を売ったときのことだ。ちなみに、作者サイモンからの電子メールから察すると、彼はマックではなく、ウィンドウズ系のコンピューターを使っているようだ。  
第九章で、「ロースト・コーストだって?」とワインは訊き返す。すると、「一号線をここに通せないので、みんなはこのことを知らない」とビルは説明する。本書の原題にもなっている「ロースト・コースト」というのは、「ノース・コースト」とも呼ばれることもあるが、カリフォーニア州北部の山岳森林地帯を指す。アラスカを除いて、アメリカ合衆国の最後の未開発地帯と見なされている。つまり、人間が汚していない大自然が残っているということである。日本語のガイドブックでも紹介されていない穴場でもある。本書でも大きく取りあげられているレッドウッドは、セコイアのことである。厳密に言うと、ここでは古代樹木のセカイヤメスギを指し、当て字で「世界爺雌杉」と書く。木材に適しているので、伐採されることになる。
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ワインものに登場する人物の多くは、実在の人物をモデルにしている。主人公のワイン自身、作者サイモンの分身である。ワインの長男ジェイコブと次男サイモンは、作者サイモンの息子ラフィエルとジェシーに似ている。しかし、ワインの元女房スザンヌは、サイモンの一番目の妻ダイアンがモデルとは思えない(この訳者は七八年にロス・アンジェルスでダイアンと会ったことがある)。  
本書に登場する《アライド製材》とその親会社《フォクサム企業》の現実版は、《パシフィック製材》と《マクシム企業》だろう。《パシフィック製材》は伐採禁止区域からもレッドウッドを伐採していたというので、九八年十一月にカリフォーニア州当局から伐採許可の停止処分を受けた。  
環境保護団体《アース・ピープル》のカリフォーニア北部長クレア・ハニンの現実のモデルは、ジュディー・バリである。バリは環境保護団体《アース・ファースト!》の活動家としてレッドウッド伐採に反対し、九〇年の非暴力的なプロテスト運動《レッドウッドの夏》を主催した。  
ところが、一九九〇年五月二十四日、バリと活動家仲間ダリル・チャーニーがカリフォーニア州オークランド市内をステーション・ワゴンで通過している途中、前部座席の下で爆発が起きた。チャーニーは軽傷を負っただけですんだが、バリは下半身不随になった。爆発の数分後、FBIとオークランド警察が現場に到着し、バリとチャーニーをテロリスト容疑で逮捕した。  
その二人は爆弾を後部座席に積んでいたとFBIは主張したが、爆発したのは前部座席の下だった。二人は証拠不充分で釈放されたあと、誤認逮捕と公民権侵害でFBIとオークランド警察を相手取って民事訴訟を起こした。FBIはこの逮捕を口実に環境保護団体に対する極秘捜査の許可を得たと考えられる。  
しかも、爆発事件の一ヵ月前に、ユリーカでFBIは「爆弾学校」と呼ばれる爆発物捜査訓練コースを開いていた。その教官がFBIのフランク・ドイル特別捜査官(ちなみに、FBIの捜査官にはすべて「特別」という冠が付く)が爆発現場に真っ先に到着した。過激分子に対するFBIの「極秘破壊活動」は一九七五年に廃止命令が出たのだが、その活動に深くかかわっていたリチャード・ヘルドは、爆発事件当時、FBIサン・フランシスコ支部長を務めていて、爆発事件を担当した。  
これだけ環境保護が叫ばれている今の時代には信じられないだろうが、一九七〇年に「地球の日」が実施された頃、環境保護団体やその活動家たちは、現状の変化を求める反米活動家としてFBIに目をつけられていたのである。  
ちなみに、本書の《カリフォーニア森林警護》というグループ名も紛らわしいが、実在する反環境保護団体《サハラ・クラブ》の名前も、本物の環境保護団体《シエラ・クラブ》と混同するほど紛らわしい。  
ジュディー・バリは車椅子にすわりながら、FBIとオークランド警察を相手に民事法廷で闘っていた。そして、九七年三月二日に乳癌で亡くなった。享年、四十七歳。皮肉にも、ちょうど本書がアメリカで公式に刊行された月でもある。
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最後に、ロジャー・L・サイモンが講談社文庫に登場するのは初めてなので、簡潔に紹介してみよう。  
一九四三年に医師の息子としてニューヨーク市に生まれた。六四年にダートマス・カレッジから英文学士号を、六七年にイェール大学から演劇学修士号を取得したあと、イェール大学で知り合って結婚したダイアンと共にロス・アンジェルスに移った。そして、そこで映画の脚本を書き始めた。  
六八年に『エアー』(角川文庫)を、七〇年に The Mama Tass Manifesto を発表したのち、七三年にモウゼズ・ワインものの一作目『大いなる賭け』を発表し、「久々に登場した私立探偵小説のもっとも華々しい新人作家」とロス・マクドナルドに称賛を受けた。そして、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞(ペイパーバック部門)にノミネートされ、英国推理作家協会(CWA)より新人作家に贈られるジョン・クリーシー賞を受賞した。そして、七八年には、ジェレミー・ポール・ケイガン監督、リチャード・ドレイファス主演、サイモン脚色で映画化された(邦題は『私立探偵モーゼス』)。  
デイヴィッド・ゲヘリンが八〇年に著わした評論書 Sons of Sam Spade では、七〇年代におけるサム・スペイドの有望な後継者として、ロバート・B・パーカーのスペンサー(『ゴッドウルヅの行方』ハヤカワ文庫)とアンドリュー・バーグマンのジャック・ルヴァイン(『ハリウッドに別れを』河出書房新社。現在のバーグマンは映画監督として有名)とサイモンのモウゼズ・ワインという三人の私立探偵を挙げている。  
七五年には二作目『ワイルドターキー』を、七九年にはワインに中国旅行をさせる三作目『ペキン・ダック』を発表した。八四年には二番目の奥さんルネ・ミセルと一緒に来日し、八五年にワインを日本で活躍させる『カリフォルニア・ロール』を著わした。八六年刊の『ストレート・マン』でMWAエドガー賞にノミネートされ、ワインの父祖の地イスラエルを舞台にした『エルサレムの閃光』を八八年に刊行したあと、九七年刊の本書までワインものの長編を発表しなかった。  
そのあいだ、映画脚本を書いたり、監督をしていたのだ。実際に製作された脚本は、『私立探偵モーゼス』のほか、八一年公開の『おんぼろバスと8人の子供たち』(オズ・スコット監督、リチャード・プライヤー主演)、八九年公開の『敵、ある愛の物語』(ポール・マザースキー監督、アイザック・B・シンガー原作、アンジェリカ・ヒューストン主演)、九一年公開の『結婚記念日』(マザースキー監督、ウディ・アレン主演。アカデミー脚本賞候補)がある。  
九八年にはチェコのプラハで撮影した Prague Duet を監督として完成させ、ヴィトリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』の現代アメリカ版とも呼ぶべきサイモン脚本の The Gardener の撮影をこれから開始するという。  
現在、ロス・アンジェルスに三番目の奥さんシェリルと住んでいて、九八年に初めての娘マデレインが生まれた。次作では、自分の娘を可愛がる探偵ワインが登場するかもしれない。

一九九八年十二月
[ロジャー・L・サイモン著作リスト]
1 Heir (Macmillan, 1968)『エアー』角川文庫 [のちに Dead Meat と改題]
2 The Mama Tass Manifesto (Holt Rinehart, 1970)
3*The Big Fix (Straight Arrow, 1973)『大いなる賭け』ハヤカワ・ポケット
4*Wild Turkey (Straight Arrow, 1975)『ワイルドターキー』ハヤカワ・ポケット
5*Peking Duck (Simon & Schuster, 1979)『ペキン・ダック』ハヤカワ・ポケット
6*California Roll (Villard, 1985)『カリフォルニア・ロール』ハヤカワ・ポケット
7*The Straight Man (Villard, 1986)『ストレート・マン』ハヤカワ・ポケット
8*Raising the Dead (Villard, 1988)『エルサレムの閃光』ハヤカワ・ポケット
9*The Lost Coast (HarperCollins, 1997)本書『誓いの渚』講談社文庫
[*印はモウゼズ・ワインもの]
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これは木村二郎名義で翻訳したロジャー・L・サイモンの『誓いの渚』(講談社文庫、1999年2月刊、714円)の巻末解説であり、自称ミステリー研究家の木村仁良が書いている。翻訳タイトルは講談社文庫風に『逃走海岸』にしてほしかったなあ。ぜひとも本書をたくさん購入することをおすすめする。(ジロリンタン、1999年11月28日)

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