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「 何か、脈打つもの 」





五月はじめの晴れた日に

世界中の空が見たくて屋上に上る

階段をひとつ昇るたびに笑顔が増していく

きっとすれ違った人は気味が悪かったんだろうけど

何か素敵なものが見えそうな気がして胸がドキドキしている

見渡した空は限られていたけれど、歌うのには十分広い

深呼吸して、最初のひと声を出そうとしたその刹那

空気がはち切れるように、脈打って押し寄せる

ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン

色も音も匂いも、全て目眩に変わって

凍り付いた笑顔に感覚が流れ込む






 桜の花が散った。

 屋上の手すりがはずれた。

 僕の手から、コップが滑り落ちた。






みんな、みんな、こぼれ落ちていく

その瞬間はスローモーション

どんな苦痛の中でさえ

微笑みが浮かぶ

そして必ず手を伸ばしてくる

虚空よりも確かな何ものかをつかむために

震えるその手はいっぱいに広がって

しばらくの間さまよった後に

諦めたように握りしめ

残像を残して消えていく

清めるための風が吹くまで

幻の痕を見つめながら感じる

手を伸ばすこと、それが生死だ

命が一番美しく意地らしい行為だ

僕はその手を握り返すことを夢見る






 いつまでも手を差し伸べて立ちつくす僕に、

 大きな初夏がドッと押し寄せてきた。

 季節の狭間に戸惑いが見える。






風はいつもそこにある

吹いているか吹いていないか

そんなことに関わらず、そこにある



光と影はいつも一緒にいたいと思っている

だから一生懸命に寄り添っている

二人の境界が一番眩しい



君は汚れてしまった

僕も君を汚したものを傷つけて汚れた

君と僕は恋や愛を超えたところで

一緒に生きていこうと泣いた



宇宙も海も人の心も

大切なものは息苦しさの中に秘められている

音が言葉になる一歩手前で響いているから

感じるには全身を浸さなければならない






 しばらく漂ったあとで、

 僕は全てのものから離れてしまいたくて、

 心の最深層にある言葉のラビリントスでもがき始めていた。






詩は、死である

生き生きとしたものを

言葉の檻に封じ込めてしまう

しかしその言葉は人の心に触れると

封じた想いとは比べものにならないほどに

様々な生命となって大躍動を始める

まるで細胞のようではないか

自分を産み出したものに触れたとたん

大切な何ものかを取り戻した歓喜に溢れて甦る

生と死がひと続きの海であるとするならば

僕の造る境界線は波の振幅でしかなく

詩は、生であり

だから詩は、生命である

僕は毎日毎日、子供を産み落とし

弱々しい吐息の子供はあなたの目に触れて

あなたに向けて活力を開花させていく

ああ、世界中で詩を読む人たちよ

あなたは生命の根源なのです






 言葉がこの体から千切れて、

 広く深く雄大に組織化された世界に拡散して消えていく。

 それでも小さな僕はここで確かに脈打っている。






人は細胞の集合体だろうか

時間は瞬間の寄せ集めだろうか

有機的に組織化されたものたちには

新たに高度な意味が生まれる

だけど瞬間に惹かれる

細胞の気持ちに

僕は惹きつけられる

僕の言葉は瞬間の連続を

旋風に巻き込みながら旅する

細胞たちのささやきを聞きながら

彼らの願いと死の上に立てられた塔を

僕は遙かな未来に伝える使命を負っている






 鳥の翼が滑り上がる五月の空から、

 羽と葉っぱと花びらがユラユラと迷いながら、

 瞬間と時間の交わる場所へ降下していく。






僕の中に生と死がある

細胞が次々に死んでいくおかげで僕は生きている

空も光も風も、世界もきっと同じことなんだ

生と死のバランスが脈動を形作っている

僕は確かに今、ここに脈打っている

そしてこの脈動が

言葉や愛情や体温として

隣にいる誰かの脈動を増幅して

時には打ち消し合い途切れたとしても

またどこからか回り込んだ脈動が響き合って

次々に水面の波紋や夜の街灯りのように伝えられて

やがて街が脈打ち、社会が脈打ち、国が脈打ち、世界が脈打ち

生と死を内包する全てのものが互いの脈動に響き合って

動物も植物も石も水も空気も光も時間も脈打って

この地球は、ドクンドクンと脈動し続ける

そうだ、宇宙の細胞のひとつなんだ

言葉が脈打っている

恋心や愛情が脈打っている

喜びや悲しみや楽しみや苦しみが

明るい気持ちや暗い激情が脈打っている

君の生活が脈打って流れ込んでくるよ

僕の脈動を君は感じているだろうか


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